神学論争と統一原理の世界シリーズ08


 

第2章 人間について

 1.心と体はどのように結びついているのか?

性解放運動
性解放運動

人間の心と体はいったいどのような関係にあるのか? という問いかけは、「人間学(anthropology)」という古代から存在する学問の中心テーマである。今日の我々の文化は、人間の体が持つ本能的な欲望は抑圧すべきでないとする傾向にあるが、実はこれは人間の体を否定的にとらえ、禁欲を理想とした伝統的なキリスト教の価値観に対する反発として出現したものであり、極めて現代的な現象なのである。特に性の解放運動などは、古くさいキリスト教的倫理による性の抑圧は人間にとって不健康なものだ、と主張して出発したものだが、それが生み出した人間の生き方もまた健康的なものとはなり得なかった。すなわち無制限の欲望の発散は人間社会の秩序を破壊し、かえって人間らしさを喪失させてしまったのである。したがって今日の我々の文化は、あるべき人間の姿を求めてさまよっているというのが現状である。

肉体を蔑視するギリシア哲学の影響

西洋の人間学の歴史を一言で表現すれば、それは「精神による身体の支配」という傾向によって貫かれているといえる。すなわち人間の主体は「精神」であり「身体」は手段に過ぎないという基本的な枠組みが存在し、賢明な人間の「精神」は、愚かな「身体」を従順な下僕として服従させなければならないと考えられてきたのである。このような精神の優位と肉体の蔑視は、遠く古代ギリシアまでさかのぼる。古代ギリシアにおいて人間の体は遺体、すなわち命をなくして物体のように横たわっている遺骸として理解された。

プラトンは「からだ」は死すべきものであり、魂は不死なるものと考えた。この魂と肉体が結合して「生けるもの」となった全体が人間である。したがって魂こそは真の人間と考えられ、身体は魂に一時的に結合した影のような存在で、魂にとっては牢獄であり、重荷であるとして蔑視されたのである。そして魂は神的な存在で、やがてこの牢獄から解放され、イデア界へと昇っていく不滅の実体ととらえられた。このようなプラトンの身体観からは、「からだ」が何か積極的な意味を持つという考え方が生まれてこなかったのは当然である。

このギリシア的な身体観は、やがてキリスト教へと受け継がれていく。もともとヘブライ人の思想においては身体は神の被造物であるので基本的に善であり、身体を蔑視する傾向はなかった。ところが、キリスト教がヘレニズム世界に広がっていく過程の中で、聖書的な身体観は次第にプラトン的な身体観にとって代わられるようになった。新約聖書において用いられる「霊」と「肉」という言葉は、すでにキリスト教のごく初期において、ヘレニズム世界の人間理解、とりわけプラトン哲学の霊肉二元論の枠組みにおいて理解されたが、これを極端に押し進め、ついに物質そのものを悪とみなすようになったのがグノーシス主義であった。

肉体を敵視するグノーシス主義

グノーシス主義者たちは使徒パウロの禁欲的な表現を自分たちの正当性の根拠として引用したが、正統教会はその二元論と対決し、これを排斥したと歴史は記している。しかし今日では、実際には正統教会がこのグノーシス主義から多大な影響を受けることによって、その倫理と霊性に身体を敵視する傾向が刻み込まれ、身体と同時に「性」をも卑しいものとする基本的姿勢が残されるようになったということが指摘されている。現代に至るまで西洋キリスト教の形態は、グノーシス的な二元論の影響を脱しきっていないという者さえいるほどである。

アウグスチヌス

アウグスチヌス

古代と中世におけるキリスト教の人間観にもっとも大きな影響を与えたのは、アウグスチヌスであるといわれている。彼はマニ教のグノーシス的思想からプラトン主義に転向し、最後にキリスト教思想を受け入れたといわれる。したがって、彼によってキリスト教に対するプラトン主義の影響は決定的なものとなったのである。彼を批判する人々は、彼によって西洋キリスト教における結婚生活の蔑視、性の否定、世俗生活の否定がもたらされ、修道院の過剰評価や独身制の強調などの不自然な宗教生活が賛美されるようになってしまったのだと主張する。

しかし私の見解では、このように禁欲主義の意味を完全に否定してしまうのはやはり議論として行き過ぎであるように思われる。もしキリスト教が人間の身体的な欲望を完全に肯定するようになれば、それは遅かれ早かれ世俗化の道を歩まざるを得なかったであろうと思われるからだ。事実、大多数のキリスト教徒たちは世俗化されていった。その中で修道院や禁欲主義者たちが、キリスト教における高貴な精神の最後の砦としての役割を果たしてきたこともまた事実であるからだ。特に堕落した世界においては、宗教的なスタンダードを保つ少数のエリート集団がやはり必要だったのだ。

心と体の統一体としてとらえる統一原理の人間観

しかし近代以降、キリスト教における身体の蔑視は激しい攻撃を受けることになる。

ニーチェ

ニーチェ

「君たち身体を蔑視する者たちよ、……君たちは生にそむくのだ」というニーチェの批判は、キリスト教内の二元論に対する攻撃の典型的なものであった。これらの批判は初めルネサンスや啓蒙思想など、キリスト教の外側からのものが多かったが、やがて心理学、生物学、社会学などの発展にともない、神学者たちも人間とは霊魂と肉体の不可分の統一体であること、そしてその間には単純な「支配・被支配」ではない弁証法的な緊張関係があることを認識するようになったのである。

ユルゲン・モルトマン
ユルゲン・モルトマン

『希望の神学』を書いたドイツの有名な神学者ユルゲン・モルトマンもその一人である。彼は「旧約聖書に帰れ!」と言うことによってこれを主張した。彼によれば、ヘブライ人は人間を魂と肉体の全体としてとらえていたのであり、プラトンやデカルトの霊魂・身体二元論とは異なった身体観をもっていたというのである。

 

現代という時代は、伝統的なキリスト教のような身体の蔑視でもなく、かといって人間の欲望を無制限に是認するのでもない、心と体のバランスのとれた関係を説く思想の出現を待ち望んでいる。したがって、人間を「心」と「体」の統一体であるととらえる統一原理の人間観は、このような歴史的背景からみて非常に意義深いものであるといえる。

【図4】

【図4】

「統一原理」においては、心も体も共に人間存在にとって不可欠かつ本質的な両側面であるととらえられており、人間は心と体が統一されてはじめて「神の似姿」になることができるとしている。それは一言でいえば「調和の思想」である。心と体は互いに調和し合って一つとなる相互補完的な存在なのであって、決して善・悪や敵・味方といった敵対的な関係にあるのではない。

さらに「統一原理」は、「霊」と「肉」も、統一的な目的をもって調和する人間の両側面であるととらえている。この地上での肉体を持った生活は、人間の霊の感性を豊かにし、成長させるための貴重な期間なのである。やがて人間は肉体を脱いで永遠の世界である霊界へと旅立って行くのであるが、ある個人の霊としての資質がどれほど磨かれるかは、ひとえに地上におけるその人の生活いかんによって決まるのである。したがって時間的には有限なこの地上の生活に、霊界における永遠の生活の在り方を決定するという、とてつもなく大きな意義が込められていることになる。
このように「統一原理」の人間観は、伝統的な身体蔑視の思想を克服しながらも、霊的存在としての人間の尊厳性と倫理の必要性を説く、バランスのとれた思想なのである。

 

 

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