アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳15


第2章 統一教会:その歴史的背景(2)

 文は興南強制労働収容所に5年の実刑を宣告され、そこで彼は収容所内の最悪の状況に肉体的にも精神的にも忍耐することによって、仲間の囚人のみならず共産党の看守たちをも感動させたと言われている(注22)。

 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、文は10月に連合軍によって、2年半余りの投獄から解放された(注23)。金元弼ともう一人の足の折れた弟子と共に、彼は共産党から徒歩で逃れ、南へ向かった。そして幾多の冒険の後(注24)、1951年の始めに釜山の難民キャンプに到着した。そこで彼は土と米軍の食料箱で造った小屋に住み(注25)、(「原理」として知られる)自らの教えを続けた。それから韓国の首都であるソウルへ移り、文は1954年5月1日に、世界基督教統一神霊協会と呼ばれる教会を設立した(注26)。その年の終わりにその運動は、梨花女子大学の当局が「原理」を調査するために教授の一人を送ったとき、かなりの刺激を受けた。しかしながら、それを非難する代わりに、彼女は改宗してメンバーになり、彼女に続いて数人の他の教授や学生が運動に加わったのである(注27)。

 しかし翌年に文は再び投獄された。統一教会の信者は、これは兵役忌避というねつ造された嫌疑によるものだったと言う(注28)が、彼は「公衆道徳の紊乱」で告発されたとも報告されてきた(注29)。あるいはもう一つの報告によると、「彼の起訴状はもともと兵役忌避だったが、後で不倫と乱交に変えられた」(注30)とされている。(韓国ではいまだに残っている)同類の噂(注31)は、彼が性的な儀式を実践していたと主張した。運動側の説明は、このような噂は、夜間外出禁止令が出されていたので、人々は長い礼拝の後で家に帰ることができなくて、夜通し教会センターに滞在しなければならなかったことに起因しており、それが他のキリスト教会の敵意をもった役員たちの側に、事実無根の推論を生じさせたというものだ。しかしながら統一教会は、文は決して性的犯罪で逮捕されたのではなく、1955年の逮捕は「兵役法違反」のためであり、彼は三カ月の投獄の後に無罪判決を受けた(注32)、とその主張の中で強調している。文の釈放の数日後に教会は青波洞に移転し、そこは教会の世界本部の場所となった(注33)。

 こうした草創期に文が通過した苦悩と迫害については、多くの話が伝えられている(注34)。これらのすべてが細部にわたって互いに一致しているわけではないが、文が二十代と三十代の初期において相当の苦難に耐えたということは、ほとんど疑いの余地がないように見える。しかしならが彼は、牢獄の中にいるときでさえ、自分が世界のために非常に特別なメッセージをもった正に特別な神の人だということを、何人かの人々に確信させることが確かにできたのである。そしてゆっくりではあっても確実に、彼の周囲には一群の信仰的な弟子たちが増えていったのである。

 新しい宗教運動の設立は、戦後の韓国においては決して珍しい出来事ではなかった。政治的・社会的・宗教的分裂によって引き裂かれた国において、統一を掲げる運動は明らかに魅力をもっていたであろう。数人の学者たちはこうした運動の出現一般を、あるいは特に統一教会の出現を、韓国の現代史とその文化的遺産の双方の観点から説明しようとしてきた(注35)。しかしそのような理論は、その運動が(伝統的に韓国人が劣る民族と見なされてきた)日本の若者たちに対してもっている魅力について説明することはできないし(注36)、ましてやアメリカやヨーロッパでの運動の発展について説明することなど、さらにできないのである。

 それでもなお、この段階で成され得る、その後の西洋における運動の発展と組織に関する一つの重要な点がある。統一教会は、その存在を基本的に文鮮明に依存している。それは分裂の結果として生じたものではないし、一団の人々が真理の原初に戻りたいと決めたことによって発生したものではなかった(注37)。それはまた、単なる聖書の再解釈の成果でもなかった。その神学は、個々の部分においては新しくはない――学者たちは、それは習合的だとか、異端の寄せ集めから引き出されていると主張しながら、多様な伝統の中にその起源あるいは先駆けを指摘してきた(注38)――しかしその「構造」において、つまりその全体として、それは独創的全体なのである。そしてその起源、全体としての像の唯一の起源は文自身である。彼の信奉者たちは、彼こそが神が真理を顕現させるために選ばれた人だと信じている(そして、彼らのほとんど全員が彼こそがメシヤだと信じているのである)。もし、神の聖なる原理について何らかの不一致あるいは誤解があった場合には、運動のメンバーが最終的に頼るべき存在は文なのである。彼が生存している限りにおいて、運動内の誰も神のみ旨をより深く理解していると主張することはできない。彼が間違いを犯すこともあると考えているメンバーがいくらかおり、彼の啓示をチェックするために他の出典を使うメンバーが少数おり、彼が実際にメシヤの任務を完遂するために選ばれた人物であるかどうか確信のないメンバーがほんの少数いるという事実をもってしても、彼のユニークな立場を損なうことはないのである。統一教会の明示する存在理由は、地上に神の天国を復帰することである。文鮮明は、神へのホットラインをもつ人物なのである。こうして力とコミュニケーションの構造の双方が、自然にただ彼の立場一点に焦点を合わせるだろうし、他の事柄は同等であり、弟子たちは、文が彼らを自分に近づけることを許した、あるいは彼に近い人々に近づくことを許した度合いに応じて、尊敬と権威を与えられるだろう。運動の起源は、言い換えれば、文をその頂点とする階層的な権威組織を示唆している。そしてさらに、信奉者たちは、それが神によって認められた権威だと信じているのである。

(注22)金元弼『原理的生活』第一部、第二部。金元弼『お父様の路程と私たちの信仰生活』。金元弼「ソウル:青波洞教会と開拓」『トゥデイズ・ワールド』1982年10月号在中。D・S・C・キム『希望の日』第二部、12, 13ページ。統一教会「統一教会」6ページ。

(注23)D・S・C・キム『希望の日』第二部、16ページ。ニール・サローネン「アメリカ統一教会の歴史」、R・ケベドー(編)『ライフスタイル:統一教会員たちとの会話』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1982年に在中。

(注24)とりわけ、金元弼『お父様の路程と私たちの信仰生活』第15章、金元弼「ソウル」8-21ページ参照。

(注25)D・S・C・キム『希望の日』第二部、16ページ。

(注26)M・L・ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史:1960-74年」修士論文、ユニオン神学大学院、カリフォルニア大学、バークレー、1980年、1ページ。

(注27)マチャック『統一主義』9ページ。D・S・C・キム『希望の日』第二部、21ページ。

(注28)サローネン「アメリカ統一教会の歴史」167-8ページ。

(注29)M・コージン「韓国と英国におけるミレニアム運動」、『英国における宗教の社会学年鑑』6、ロンドン、学生クリスチャン運動(SCM)、1973年、107ページに在中。Syn-duk-Choi「韓国の統一運動」『韓国支部、ロイヤル・アジアテック・ソサイアティ会報』第43巻、1967年、169ページを引用。

(注30)『ノーザン・ディリー・リーダー』オーストラリア、1979年9月3日付。R・フレーザー『ジェラングルの魔女狩り:オーストラリア統一教会の研究と、その設立に対する一般市民の反対』オネハンガ、ニュージーランド、1979年に個人的に配布、105ページに引用されている。

(注31)多数の非統一教会員の韓国人との会話において、私が統一教会について得た最初の情報は、ほとんどすべての事例において、文は信者と非道徳的性交を行っている(あるいは行ってきた)というものだった。

(注32)R・フレーザー『ジェラングルの魔女狩り』106ページは、文龍明(別名・鮮明)は、ソウル高等裁判所において1955年11月に兵役法違反で無罪と判明したと記述する、韓国の記録カードのコピーを載せている。また、D・S・C・キム『希望の日』第二部、26, 31ページ。朴普熙『真実は私の剣』インターナショナル・エクスチェンジ・プレス、1978年、43ページ。

(注33)D・S・C・キム『希望の日』第二部、31ぺージ。金元弼『ソウル』8-11ページ。

(注34)とりわけ、阿部「教会指導者のマニュアル」187ページ以下。金元弼「お父様の証し」と『お父様の路程と私たちの信仰生活』。D・S・C・キム『希望の日再考』第一部:1972-1974年と、第二部:1974-1975年、金永雲「神のために」。マチャック『統一主義』。白その他『文鮮明』。アメリカ統一教会『文鮮明』。サローネン「アメリカ統一教会の歴史」。ソンターク『文鮮明と統一教会』第四章。周藤健「120日修練会マニュアル」未出版の翻訳、ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1975年、マスター・スピークス「統一教会の歴史」1971年12月29日。

(注35)例えば、コージン「韓国と英国におけるミレニアム運動」。M・L・コージン「韓国と英国における宗教セクト」哲学修士論文、ロンドン大学、1973年。

(注36)ソンターク『文鮮明と統一教会』。H・W・マックファーランド『神々のラッシュ・アワー』ニューヨーク、マックミリアン、1967年参照。

(注37)コージン「韓国と英国におけるミレニアム運動」第一章。

(注38)例えば、F・クラーク「『原理講論』における人間の堕落」、H・リチャードソン(編)『十人の神学者の統一教会に対する返答』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1981年に掲載。M・D・ブライアントとS・ホッジイズ(編)『統一神学探究』第二版、ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1978年。M・D・ブライアント(編)『統一神学に関するヴァージン・アイランドのセミナー議事録』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1980年。M・D・ブライアントとD・フォスター(編)『聖書解釈学と統一神学』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1980年。R・ケベドーとR・サワツキィ(編)『福音派と統一教会との対話』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、1979年。

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