アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳36


第4章  ムーニーと出会う(6)

イギリスと同じように、午後は運動の時間だ。ドッジボールが大好きで、二つのチームがそれぞれスローガン(例えば「愛は全てを占領する!」)を叫びながら、他のチームのメンバーに思い切り大きなボールをぶつけようとする。率直に言って、私の参与観察の中で一番つまらなかった時間の一つがこれであった。

ゲストがムーニーのいないところで情報交換することは不可能ではないが、容易なことではない。少なくとも一人のメンバー(異性であるかもしれないし、そうでないかもしれない)がそれぞれゲストを見るようにとの役割を与えられており、キャンプKでのムーニーたちは、他のどこよりもこの仕事に熱心のようだった。男性の「相棒」が女性のゲストの手洗いにまで付いていくことはないが、休憩時間には通常そこに列ができるので、一人でトイレにも行けないといったよく聞く不満にも一理ある。私の体験では、トイレではそれぞれの人がノートをつけるだけのプライバシーが十分守られていた。ただし、トイレが親密な会話をするための理想的な場所だとはとうてい言えないだろう。私が私的な意見交換を他のゲストとできたのは、ゲームで早い段階で脱落したときや、「消灯」の後にささやくように打ち明け話をしたときだった。

二日目の夜には、「全員参加」のエンターテインメントがある。各グループは、その日のうちに準備した寸劇や歌を披露する。これらは、「勝利を我らに」(訳注:原題はWe Shall Overcomeで、アメリカの公民権運動のシンボルとして歌われた曲)的感情とでも呼ぶべきものを示す傾向がある。私が参加した週末の修練会では、モーゼ・ダースト現アメリカ会長(当時はオークランド・ファミリーのリーダーだった)が、ヘンデルの「ベレニーチェ」からメヌエットを一人で踊って(少なくとも献身的な一部の)聴衆を喜ばせた。

週末が終わりに近づくにつれ、ゲストはこの運動がどんな人々によるどんな団体なのかをはっきりとは分かっていないのだが、それが非常に献身的な青年たちからなっている運動であり、彼らは自分に対してもっと滞在して探究することを熱望しているのだということを確信するようになる。全般的に、アプローチの方法は、ムチで打つよりもアメを与えるというものだ。他の信仰や生き方を批判したりするよりも、希望を強く打ち出している。外部世界への全面的な批判が当然とされており、これまでゲストが重要だと思ってきた考え方などについて具体的な批判をするといったことはあまりない。この段階で、ゲストがこれまで信じてきたものは偽りであると言われることはない。むしろ、いまここで見いだすことのほうがはるかに真実であると示唆される。頻繁に使われる言葉の中に、「本当に温かい(warm)人」(「本当に格好いい(cool)人」ではなく)、「近づく(close in)」(「逃げ出す(way out)」ではなく)、「愛によって立ち上がる(rising in love)」(「恋に落ちる(falling in love)」ではなくて)などがあるのは、おそらくこの運動の前向きな楽観主義を示唆しているのだろう。オークランド・ファミリーがどうして「愛の爆弾」(第7章参照)のそしりを受けているのかを理解するのは困難ではない。強烈な注目を浴びるのは、カリフォルニアという「場面」に慣れていない者にとっては、特に印象的である。そこで提供される歓迎は、イギリスの運動の心地よい配慮をはるかにしのぐものである。しかし、同時にそれはあまり長続きしないものでもある。

次の段階へと進みたくないと主張しているゲストの気持ちを変えるのは無理だと主催者が判断すると、その人ははっきりと落とされる傾向にある。私のグループにいた東海岸出身のある女性は、彼女が月曜の朝に家に帰るつもりだと言い張ると、生涯の友だと思っていた一人のムーニーが彼女に全く関心を示さなくなってしまったのを見て、驚くとともに少なからず傷ついたと言ってきた。しかし、サンフランシスコに帰りたいと主張したときに彼女をそこに乗せていってくれる運転手を見いだすのは困難ではなかった。同じグループ内の別の女性もそこに戻っていったが、彼女は、1、2週間後、必要な手はずが整えばもっと長いコースに戻ってくると約束していた。同じグループの四番目の男性は、「一日ほど」ブーンビルの農場で過ごそうとしていたが、実際どれくらい滞在したのかは私は知らない。

上級の修練会/セミナー

大多数のムーニーは入会するまでに2日間の修練会(あるいはそれに相当するもの)に参加するが、他の修練会に参加するかどうか、そしてもし参加するとすれば、それがどのくらいの長さであるかは、彼らが初めて運動に出会った時期に大きく左右される。(注18)1970年代後半以降は、完全に献身的なメンバーとみなすまでに、西洋における新しいメンバーが統一教会の信仰と実践に関する三週間の入門コースを確実に通過するよう努力するというのが、かなり標準的な慣例であった。新会員候補がオークランド・ファミリーと7日間のコースに行くと、講義の内容は宗教的な色彩の濃いものになっていく。オークランドに固有の考え方が依然として残っているものの、正統的な『原理講論』の教えとの関係は一段と明らかになっていく(注19)。ただし、ここでもゲストに入手可能な情報をコントロールするように警告がなされている。日本人指導者たちに対するマニュアルでは、講師は運動の歴史の一部を教えるように言われているが、「注意事項」として、次のようなアドバイスがなされている:(1)7日間の修練会であることを考慮すれば、講義はあまり詳細にならない方がよい。(2)この講義では、「お父様」は文師と呼ぶべきである。(注20)

私のアンケートに回答した人たちが、さらに上級の修練会に参加を決めた最も多い理由は、運動についてもっと詳しく学びたいからというものだった。継続をやめた理由の中で最も多いものの一つは、修練会が退屈で時間の無駄だと感じたから(非入会者の5分の1がそう答えた)だった。それよりやや少ない者が答えた理由は、統一教会が好きでなかったから(非加入者の17%)だというものだ。会員からの圧力も、それほど多くはないがときどき、継続「しない」理由の一つに挙げられた。しかし、会員からの圧力を継続「した」理由にあげた者は実質的におらず、それは入会しなかった者や入会して後に離れた者でさえそうだった。私のアンケートに対する回答者の中で、運動との接触を維持しなくなったのは他の(非統一教会員の)人々のせいだと言ったのは3%だけだった。継続しなかった回答者のうち約3分の1は、何らかの付随的な理由(例えば仕事があるので時間がとれないとか、あるいは子供がいるので戻らなければならないといったこと)を挙げている。それは通常、情況が違えば継続しただろうというような軽い気持ちを示唆していたが、そうすることは、二日間の紹介の後で運動のために費やす準備が出来ていたことよりも、はるかに多くの努力を必要としたのである。

オークランドでは、1970年代の後半、一週間のコースに参加した人々は、次の何週間かの間、同じような講義やその他のイベントをただ繰り返すだけであった。ただし所定の構造の枠外で、非公式的に新しい情報が与えられることもあった。しかし、その他の場所では、21日修練会がしばしば運動への入門の公式的なプロセスの一部となってきた。イギリスでは21日修練会は時には3つのグループに分けられて同時進行し、「初心者たち」のグループが7日間修練会の参加者と合流したこともあった。参加者は食事のときやより一般的な活動のときには合流するかもしれないが、大部分の講義やディスカッションのときは分けられていた。参加者のうち数人はすでに活動を初めてしばらくたっていたムーニーであったが、入会したころには21日修練会がなかった者たちだったり、再教育コースを望んだもの(あるいはためになるから参加するように言われた者たち)であった(注21)。

(注18)1979年に、イギリスのムーニーの4分の3が21日間修練会に参加した。だがヨーロッパのムーニーでは半数以下であり、半数が7日間の修練会に参加した。1979の間あるいはそれ以降に参加したイギリスのムーニーのほとんど全てが、21日間修練会に参加した。
(注19)たとえば、金栄輝『統一原理スタディー・ガイド』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1973年(ロンドンで再販、世界基督教統一神霊協会、1977年)は講義の基礎として使われた。
(注20)阿部『教会指導者のマニュアル』121ページ。
(注21)これは、いまは起こりそうもない。新参者のコースは会員のものとは分離されることが一般的になった。

 

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