神学論争と統一原理の世界シリーズ19


第四章 救いについて

4.救われるとはどういうことか?

ほとんど全ての宗教が何らかの形での「救い」を人々にもたらそうとし、また多くの人々が「救い」を求めて宗教の門をたたく。しかし一言で「救い」といっても宗教ごとにその意味するものはさまざまで、非常にバラエティーに富んでいる。そこでこの節においては、世界の宗教における「救い」の意味を明らかにする代表的なキーワードを挙げながら、「統一原理」の意味する「救い」について明らかにしたい。

世界の宗教における救済観

救いの意味を明らかにする第一のキーワードは、「贖罪と許し」である。これはユダヤ・キリスト教やイスラム教などの人格神を信じる宗教において顕著な概念だ。ここにおいては救いの業が行われる場は「法廷」として描かれている。神は正義の裁判官として立っており、我々は罪人または被告人として審判を受ける立場だ。そして悪魔が我々の罪を暴露する検事の立場に立っており、救世主は我々を執り成して無罪や刑の軽減を実現しようとする弁護士の立場に立っている。

第二のキーワードは「癒やし」である。シャーマニズムなどの原始的な宗教においては、しばしば「病気治し」が行われ、現代の新宗教においても盛んに行われている。高等宗教を自任する伝統宗教はあまり病気治しは行わないが、人間の腐敗した性質を「魂の病気」ととらえ、魂の癒しと肉体の健康には密接な因果関係があるという見方は広く受け入れられている。そのような意味において、救世主やその代理としての聖職者の任務は「医者」であり、救いとは「治療」なのである。

第三のキーワードは「罪や煩悩からの解放」である。これは人格的な絶対神を立てないヒンドゥー教や仏教などに顕著な概念で、罪は法廷において審判される客観的な事柄としてではなく、むしろ自己の内面にある汚れた欲望であると理解される。欲望はしばしば本来の自己を縛っている鎖のようなものとされ、これから解放されて真の自由を得ることが「解脱」であり、これが救いの中心概念となるのである。

第四のキーワードは「無知の克服」である。ここでいう「無知」とは宗教的真理に対する目が開かれていないことを意味するのであり、これを克服することがいわゆる「悟り」である。悟りというのは知的な学習を積み重ねることによって得られるとは考えられておらず、直感的で体験的な真理の認識とされる。悟りはヒンドゥー教や仏教における救いを表す代表的な概念であるが、悟りの体験はほとんどの宗教に見られ、キリスト教では「ヨハネの福音書」に類似の概念が見いだされる。

第五のキーワードは「修練」である。普通は救いといえば人間を苦しみから解放してくれるものであると考えられることが多いが、苦しみを甘受し、それを自己の霊性の向上に役立てることができるようになることこそ「救い」なのだという概念もまた宗教には存在する。これは修行を重んずる宗教に顕著な考え方で、キリスト教においても修道生活や、神の恵みとしての「試練」の概念に見いだされる発想である。

第六のキーワードは「神秘的合一」である。神秘主義はほとんどすべての宗教に見いだされ、通常それは定式化された儀礼や道徳的な努力によっては真の救いは得られないという主張となって表れる。彼らにとって救いは言葉では表現できない主観的・体験的なもので、それを表現したり定式化しようとすればたちまちにして失われてしまうような、深遠なるものなのである。

第七のキーワードは「新生」である。イエス・キリストが「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言ったように、宗教における救いの概念はしばしば「生まれ変わり」として表現される。これは罪と欲望に満ちた古い自己が死に、神によって生み変えられた新しい自己になるという「死と再生」のモチーフであり、ほとんどすべての宗教に共通するものである。

第八のキーワードは「彼岸への旅立ち」である。宗教の道はしばしば「旅」に例えられ、それはよく苦海を渡ってパラダイスに向かっていく旅として描かれる。イスラエル民族がエジプトを脱出して、荒野を通過してカナンへ向かう旅はこの典型的なものであるが、来世を強く志向する宗教においてはこれは現実の人生における労苦が、永遠の休息地である「あの世」において報われるという考えに結びついている。これは究極的な救いは現世ではなく、来世において得られるという思想である。

第九のキーワードは「永生」である。キリスト教の根本主義においてはこれは肉体の復活として解釈されているが、その他ほとんどの教派においては地上における肉体的な生命と、神の愛の元にあるという意味での「霊的な」永遠の生命を区別している。ここにおいて救いは「永遠の生命」への参与として理解されているのである。これと同様の「永生」に対する憧憬は、世界中の宗教に見られる。

第十のキーワードは「平和」である。ユダヤ・キリスト教の伝統では、人間の堕落は平和な楽園の喪失という形で表現されているし、仏教の描く極楽もやはり永遠の平和が支配する世界だ。通常宗教における平和は、激情、貪欲、不安、迷いなどのない「心の平和」から出発し、それが広まっていくことによって家庭、民族、国家の平和も実現されると考えられている。また多くの宗教が現実に存在する戦争や不和に心を痛め、それを克服した平和な状態を「救い」と考えてきたことも事実である。

第十一のキーワードは、「苦難や抑圧からの解放」である。これまで述べた救いの概念は主として個人的なものが多かったが、救いが社会的・国家的次元でとらえられる場合ももちろんある。神がモーセを遣わしてイスラエル民族を奴隷から解放する物語などはその典型である。社会的に抑圧され、虐待された人々にとって「救い」とは単に精神的なものではなく、具体的な苦難からの解放を意味するのである。

第十二のキーワードは、「革命」である。これは第十一の概念をさらに押し進めたものだ。ここでは現在の社会は悪い習慣、思考形態、行動様式、社会秩序に支配されており、神が定めた真の秩序から逸脱しているという認識に立ち、宗教の使命はそれを本来の状態に復帰することであるととらえられる。このような救いの概念を持つ宗教は、必然的に既存の社会制度や政治制度を改革するための運動を展開するようになり、救いとはすなわち「理想世界の建設」を意味するのである。

入り口は違っても出口は同じ

以上のような救いの概念は、決して互いに排除しあうものではなく、互いに重なり合うものであることはいうまでもない。さて、「統一原理」における救いの概念はどうかといえば、これらの概念がすべて包含されているといわざるを得ない。何と節操のない結論かと思われる方もいるかもしれないが、これが私の率直な実感なのである。

「統一原理」はキリスト教的なメシヤ思想と贖罪の概念を中心としながらも、霊的無知の克服による悟りの概念や神秘的・直感的宗教性も兼ね備えているし、来世観と共に「地上天国建設」の思想も持っている。したがって上述のすべての救いの概念がバランス良く結合されたものが「統一原理」の救済観であるといえるのである。もとより上述の救いの概念が、各々全くバラバラのものであるとは私は考えない。それは究極的には一つである「救い」という目標に対して、各個人がどの側面に一番興味を持って探求し始めるかという「入り口」の違いに過ぎないのである。

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