神学論争と統一原理の世界シリーズ06


 

第1章 神について

4.神の存在は証明できるか?

宗教を信じない無神論者たちは、「もし神がいるなら証明してみろ」と言う。このような批判は科学の発達した今日のみならず昔からあったようで、キリスト教における神の存在証明の歴史ははるか古代にまでさかのぼる。それらのすべてを取り扱うのは無理なので、ここでは最初の哲学的な神の存在証明といわれているカンタベリーの大主教・聖アンセルムス(英国1033ー1109)による「存在論的証明」から始めることにする。最初に断っておくが、もしこの証明を読んでチンプンカンプンだったとしても落胆する必要は全くない。ここで引っかかって悩むくらいなら、軽く読み流して先に進んでいただきたい。

アンセルムス

アンセルムス

アンセルムスによる神の証明は納得できるか?

アンセルムスは、まず神を「それ以上偉大なもの(またはより完全なもの)が考えられないようなもの」であると定義する。そのようなものをまず皆さんの頭の中で想像してみてほしい。我々がそれを想像できるということは、それが少なくとも一つの考えとして我々の頭の中に存在することを意味している。さて、問題はその考えが頭の外に現実のものとして存在するかどうかである。ここでもし神が我々の頭の中だけに存在して、現実には外界には存在しないものだと仮定して欲しい。それと我々の頭の中にも、現実にも存在する神とを比べてみたら、どっちがより偉大で完全だろうか? それは現実にも存在するほうに決まっている。ということは、我々の頭の中にのみ存在するような神は、「それ以上偉大なものが考えられないようなもの」ではないことになる。これは最初の神の定義と矛盾する。したがって神は我々の頭の中にも、現実にも共に存在しなければならない。

この一見トリックのように思える証明が正しいかどうか、中世から現代に至るまで激しい論争が繰り広げられてきた。この証明の真偽については、あまりにも複雑な哲学的論争にはまっていくのでここでは扱わないが、皆さんはこれを聞いて「なるほど神は存在するんだ!」と思われたであろうか? 正直いって「だまされたような気分」になった人が多いのではあるまいか。私に言わせれば、それは非常に重要な感覚であるから、その感覚をよく覚えておいて、もうしばらく神の存在証明に付き合ってほしい。

宇宙論的証明と目的論的証明

カトリック神学において最も一般的な神の存在証明は、「宇宙論的証明」と呼ばれるものだ。これは世界が偶然に存在し、自己の内に原因を持っていないこと、他者に依存して存在するものであるという事実から出発して、必然的に存在して世界の原因となる神にたどり着こうとする議論である。ちょうどビリヤードの玉が動くためには最初のキューを打つ人間がいなければならないように、今あるすべての存在の第一原因としての、神が存在しなければならないという議論である。

一方、プロテスタント陣営で最も広く受け入れられているのが、「企画意図からの証明」とか「目的論的証明」と呼ばれているものだ。これはちょうど我々が荒れ野に落ちている時計を見つけたら、その時計が自然の雑多な原因が重なってできた物だとは考えず、知性すぐれた製作者の存在を考えるように、世界が規則正しい秩序を保ち、合目的性が組み込まれているように見えることから、その設計者としての神の存在を考えなければならないと論ずる方法である。現在アメリカのプロテスタント教会が製作している宣教用のビデオは、大体この線にそって神が存在することを説明している。

これらの議論は現代人に対してもある程度の説得力を有するように思われるが、哲学的には18世紀ぐらいまで通用していた議論であって、ヒュームやカントなどの哲学者が因果律や合目的性の上に成り立っていた自然神学を破壊して以来、高度な知性を持つ人々には説得力を失ってしまった。それ以来神の存在に関する議論は混沌を極め、とうてい一般人の頭脳ではついていけない領域に入ってしまった。そしていまだかつて、哲学者から一般人に至るまでの万人を納得させるような完璧な神の存在証明というのは、出現したためしがないのである。

愛を論理的に証明することの無意味さ

そもそも神の存在を科学や論理によって証明することは、カテゴリー・エラーではあるまいか? 科学は自分の研究する対象やその手段を限定し、自分の発言できる領域をわきまえている。したがって対象化され得ない究極的存在である神は、科学の手に余る存在である。そして論理や因果律の原因者であり超越者である神が、論理や因果律によって説明され、その枠の中に納まってしまうというのもおかしな話である。

というわけで、私は理論的に完璧な神の存在証明が将来出現する可能性はほとんどないと思っている。だが未来のことは誰にも分からないから、その可能性を全く否定するものでもない。ただ言えることは、世の中には理屈では証明できないものが山ほどあるということだ。例えば、あなたの妻あるいは夫があなたを愛しているということに確信が持てないとき、あなたは「愛を証明して欲しい!」という感情を相手にぶつけることがあるかも知れない。しかし、次の日に相手があなたに提出したものが、二人が出会ってから今に至るまであなたに対して何をしてあげたかを、日時から始まってプレゼントの値段に至るまで詳細に記載したレポートだったら、あなたはどう思うだろうか? 確かにそれは「愛の理論的な証明」かも知れないが、明らかに興ざめするような行為である。

だから私は、たとえ理論的に完璧な神の存在証明が出現したところで、それがどれだけ人々を神に導くのに役立つだろうかと疑問に思う。さらにもし理論的に完璧な神の存在証明が出現したら、宗教人たちはどういう態度を取るだろうか、ということも考えてみる必要があると思っている。彼らは鬼の首でも取ったかのように無神論者たちを攻撃し、神の存在証明は客観的な真理だから学校の教科書にも載せて、万民がこれを受け入れなければならないと主張するのだろうか? もしそうなったら、その存在証明のおかげで、人格の錬磨と愛の実践による宣教の努力は削がれてしまう結果になりはしないか?

ひるがえって考えれば、過去における神の存在証明はどれだけキリスト教を広めるのに役に立ったのだろうか? それは神を信じない人々の考えを変えさせるというよりは、むしろすでに神を信じている人々が自らのよりどころを理論的に固めることによって、確信を得るのに貢献してきたように思う。すなわち神の存在証明というのは、すでにそれを信じている人々が自分の確信を導き出すために、一見合理的に見える議論を展開しているのに過ぎないのだ。言い替えれば、それは本質において「初めに結論ありき」の議論であり、純粋な科学ではないということである。その神の存在証明を聞いて納得する人は、やはり情緒的な面において神を受け入れているのであり、理論はあくまでその情を取り巻いて武装するための手段に過ぎない。

神と出会えればその存在証明は必要ない

人間は理性一辺倒の存在ではない。認めたくないものは、どんなに合理的な理由を突きつけられても認めたくないことがある。犯罪者は百の証拠を突きつけられても自分の犯行を認めないときがある。逆に「吐いてしまえば楽になるぞ」といった情緒的な説得が功を奏するときもある。これと同様に有神論者と無神論者を分けているのは、本質的にはその人の人生観が神を受け入れているかどうかという「情」なのであって、理論ではない。それを合理化する理屈は後からついてくるものだ。

統一教会の信徒たちの間では、先に述べた「目的論的証明」が比較的広く受け入れられているように思われるが、神の存在証明は「統一原理」の中心的な関心事ではない。それは神は単に存在していることが分かればこと足れりといった存在ではなく、もっと重要なのは神の「心情」と「願い」を知ることであると考えられているからだ。神と人間の関係は本来親と子の関係であり、その親の存在の証明を求めること自体が悲劇なのだ、と「統一原理」はとらえる。これはちょうど長い間親と離ればなれになっていた子供が、急に「私が親だ」と言われてもにわかには信じがたいから、DNA検査をして証明してくれというのに似ている。親はふびんに思ってDNA検査ぐらいしてあげるかもしれないが、それで問題が解決したというわけではなく、そこからお互いに努力して親子の情関係を築いていかなければならない。同様に、人間の神認識は、理性よりも霊性や心情における理解がより本質的なのであって、それ抜きにして知的にのみ神を追究しても意味がないのである。

「統一原理」は神や聖書についてできる限り合理的に説明しようという努力をしているが、それは科学万能主義の洗礼を受けた現代人に宗教的内容を分かりやすく説明しようという意図からくるものであって、決して宗教的真理が理性に還元されるものであるとはとらえていない。神の存在証明についてもそれは同様である。「統一原理」は、「神は存在する!」ということを理屈で説明しようというよりは、我々の手を引いて神の元へ連れていき、神と出会わせてくれる理論である。頭だけでなく、全人格的に神と出会う道を教えてくれるのである。そのような境地に至ったとき、もはや理論的な神の存在証明など必要なくなるのである。

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