アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳11


第一章 接近と情報収集(7)

私の研究においては、比較目的のためにさまざまな団体を使ったが、そこには特に重要だった二つの非ムーニー団体があった。一般人口統計によって私は、例えば、性別、年齢、社会的・宗教的背景のような変数に関して、ムーニーが彼らの同国人たちとどの程度異なっているかを知ることができた。私が関心をもったその他いくつかの変数に関する必要な情報は入手できなかったので、そしてこれらの変数は性別や年齢や背景によって影響されがちなので、私はムーニーに配ったものに類似したアンケートを、性別や年齢や背景に関してムーニーと「一致する」人々の集団に配った。

私は、完璧な基準が要求するほど体系的に私の対照群を選択するだけの資源(時間とお金)を持っていなかったが、研究の目的のためにはその方法で十分だった。私はムーニーに配った41ページのアンケートの36ページ版を作成した。その違いは、回答者が統一教会について何を知っているかを尋ねるいくつかの質問を含んでいることと、そしてもちろん、運動内の生活に直接関わる質問を含んでいないことだけだった。それから私は、ムーニーがそこから勧誘される可能性のありそうな社会的状況に自由に出入りできる20名あまりの人々を見つけた。これらのコンタクトの中には全国の総合大学、単科大学の教師、ローマ・カトリックの神父、長老教会の牧師、多様な青年団体、そして20代前半くらいの人々と関わりを持つその他の組織のメンバーたちがいた。私がそれらのコンタクトに与えた唯一の指示は、年齢が18歳以下の者にはアンケートを渡さないようにということだった。私はそのようなアンケートを200部弱配り、符号化が可能な110部の解答を受け取った。

加えて、1979年の間にロンドン地域で行われた修練会に参加した者たちの1017枚の参加申込書から、私は、ほとんどがムーニーになりはしなかったが、ムーニーがそこから勧誘される顧客層を実際に代表する人々の集団について、かなり多くの情報を収集することができた(注15)。私は判読可能な住所を書いた申込者に6ページのアンケートを送った。この中から130の符号化が可能な回答を得ることができ、これらは愉快で親密だった1979年のロンドン修練会参加者の、既に知られている性格を反映していた。次に、回答者の大部分は入会していなかったので、意味のある比較を可能にするほど十分な数の「入会者」を確保するために、同じ6ページのアンケートが1979年か1980年の間にメンバーになった英国人ムーニーたちに送られた(注16)。すべてのアンケートに対する回答者の数の詳細は表1に表されている。

申込書

研究のために基本データのいくつかを提供してくれた(英国修練会のための)申込書の一例。

table1

他の情報源

研究過程の間に私は、100組弱の両親と接触をもった。何人かは統一教会のセンターで会い、その他は反カルト集会で会ったが、彼らの大部分は私が研究しているということを何らかの方法で聞いて、なんとしても情報が必要だと感じて私に連絡を取ってきたのである。ムーニーたちと同様に、これらの両親の何人かは、何が起こっているのかを知っていながらなおも運動のメンバーでない誰かに話す必要性を感じていた。大部分の両親たちは、メンバーたちとの意思疎通に困難を感じていた。そのメンバーの中には、おそらく、なぜ彼が一日に18時間も街頭で「ファンドレイジング」をするために、その経歴や家族や友人を犠牲にしなければならないのかを、どうして両親が理解することができないのか、あるいは理解しようとしないのかを、理解できない、あるいは理解しようとしない彼ら自身の子供も含まれていた。(「ファンドレイジング」とは、通常は文書と交換に寄付を募ったり、花、植物、キャンディ、その他の商品を街頭で売ったり、人々の家を訪問して売ったりして、募金を集める行為に使われる言葉である。)「彼らは私が言いたいことに全く耳を傾けようとしない。彼らはバターの値段だとか、私の従兄姉の新しい洋服がどうだとか、重要でない何か別のことに話題を変えるばかりだ」と、両親を訪問した後で苛立ったムーニーは不平をこぼした。同じように苛立った親は、その息子が珍しく週末に帰宅した後で、「彼と真剣に話そうとするたびにいつも、彼は私たちの堕落性や、エデンの園で何が起こったかについて、馬鹿のようにしゃべり始めるだけです」と不満を言った。

同時に両親たちは、外の世界からの支持や理解といったものはあまり得られないということをしばしば発見する。友人たちは、いかに自分の子供たちがケンブリッジでちょうど学位を取得したばかりかについて話し、彼らを困った顔で見るかもしれない。叔父たちはその父母に、状況を制してすぐに運動からジョージを連れ戻すようにと言うかもしれない。女性たちは哀れみの目をもって母親を見て、自分たちが子供といつも親密な関係をもっていたことがいかに幸運であるかを話すかもしれない。他の親切な友人たちは、「もしや、あなたがこれを見ていなかったらと思って」とか、あるいはもっと無慈悲に「これがヘンリエッタが逃避したもの?」などと非難めいたことを余白に書き込んで、出版物の中のよりセンセーショナルな記事の切り抜きを送ってくるかもしれない。そのような両親たちを知ることを通して私は、何が起こっているかについての解釈の違いが、いかにして彼らとその子供たちとの間に悲劇的は亀裂を生じさせ得るのかについて知る機会を得た。そしてもちろん両親たちは、ムーニーたちが私に提供してくれていた情報と比較することのできる、事実に基づく多大な情報を私に提供してくれたのである。

さらなる非常に重要な情報源(しかし、これもまた常に信頼できるわけではないことが分かったが)は、「反カルト運動」だった(注17)。私は文献を受け取り、こうしたグループのいくつかを代表するかなりの数の人々と会った。ディプログラマーたちとの対話の中には、拳銃とカルト信者から奪ってきた戦利品で装飾された事務所での、非常に愛想が良くて実に魅力的な紳士との12時間にわたるインタビューがあった。別の機会に私は、ウェイ・インターナショナルという別の新宗教を脱会したばかりの若い男性のための「カウンセリング・セッション」を傍聴した。

私は数え切れないほどのメディアとのやり取りをさまざまな形で行った――その中には友好的でお互いに役に立つものも、そうでないものもあった。私は英国とドイツの関心を有する多くの政府官吏や、多くの異なる宗教組織の代表者たちと、統一教会について討論した。比較のために私はまた、12団体ほどの他の新宗教運動のメンバーを訪問し、インタビューを行った。

しかしながら、情報をチェックするのに最も価値ある資料はおそらく、彼らがその運動を脱会した後で私が連絡を取り続けた20人ほどの人々だっただろう。私は多くのその他の元メンバーとも話したが、私がムーニーとしても元ムーニーとしても知っていた人々は、私が最も多くを学ぶことのできる人々だった。

(注15)1017枚の申込書は、私に申込者の性別、生年月日、国籍、宗教的背景、職業、最初に出会ったムーニーの性別と国籍に関する情報を与えてくれた。21日修練会が行われたセンターから私は、21日修練会に申し込んだ600人以上の人々に関する同種の情報を得ることができた(そのうち何人かはロンドンの2日修練会申込者と重複しており、残りは国内の他の場所での修練会に参加していた)。さらに私は、1979年を通じて行われた2日修練会、7日修練会、21日修練会の名簿(それらは関連するセンターに保存されていた)と比べて、これらの名前を照合することができた。最終的に本部は、私がその申込書の中から実際にメンバーになった者を調査することを許可した。

(注16)修練会参加者に関するデータを得た方法と、回答の代表性がチェックされた方法のさらに詳細な内容のために、ロドニー・スターク(編)『宗教運動:創世記と出エジプト記と民数記』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン・プレス、近刊予定、およびアイリーン・バーカー(編)『神々と人間の:西洋における新宗教運動』アトランタ、マーサー大学出版、1984年に掲載の、私の「逃れた者たち:統一教会の修練会に参加したがムーニーにならない人々」、ディック・アンソニー他『新宗教運動における改宗と掛かり合い』近刊書予定に収録されるアイリーン・バーカー「抵抗できる強制:統一教会への回心と献身における失敗率の意義」を参照のこと。

(注17)第二章、及びアンソン・D・シュープ・ジュニアとデビッド・G・ブロムリー『新しい自警団員たち:プログラマー、反カルト主義者そして新宗教』バーバリー・ヒルズ、ロンドン、セージ・パブリケイションズ、1980年を参照のこと。

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