アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳17


第2章 統一教会:その歴史的背景(4)

 それが宣教された事実上すべての国で、統一教会の出発は非常に遅々としたものだった。最初の一年あるいは数年の間で、一人か二人の宣教師自身が誰かを説得して入会させることがあったとしても、多くを入会させたことはほとんどなかった。いくつかの非キリスト教国では、たった一人の宣教師たちが、実質的に何の成果もないままさらに長い、長い期間を過ごしてきた。他の多くの事業と同様に、これは部分的には成功が成功を生むという話であり、あるいはむしろ、成功の不在が失敗を永続させるという話なのである。信者たちという社会的状況の後押しがない状態で、(しばしば外国人である)個人から奇妙な新しい哲学をただ聞くだけで、一つの運動としてそれを「見る」ことができないときには、ある運動に入会する人はほとんどいないであろう。

 効果的な伝道の技術を身につけるには、ある程度の時間がかかるというのも事実である。アメリカにおける運動の初期においては非常に多くの実験があり、かなりの時間と労力が、実りのない事業に費やされた(注57)。初期の伝道活動に用いられた多様な戦略や戦術を研究したロフランドは、ミス・キムのグループのメンバーがいかに多くの問題について揺れ動いたかを、次のように記している。最初のコンタクトが一対一のレベルで成されるべきか、あるいは新聞やラジオのような非個人的手段を通して成されるべきか。メンバーたちはその神学的・終末論的メッセージをすぐに明らかにすべきか、あるいは改宗の可能性のある人の関心を何とかして引きつけるまで待つべきか。宗教的な場所と世俗的な場所のどちらで人々に接触すべきか(教会の中か、街角か)。そして、もし宗教的な場所であるとすれば、例えば、霊能者集会のような「逸脱した」場所のほうが主流の教会よりも見込みがあるかどうか。また、影響力のある重要人物と一般会員のどちらを捜し出すべきか、年齢の高い人(40歳以上)と若者のどちらに集中すべきか、といったことも決断しかねていたのである(注58)。

 これらは、ミス・キムのグループだけが直面したジレンマではなかった。文は初期の宣教師たちに対して、組織や伝道のあり方に関する特定の指示を、たとえあったとしても、ほとんど与えなかったという多くの報告がある(注59)。各自が自分自身の裁量に任されていたのである。これは、試行錯誤の過程がただそれぞれのグループ「内」だけで続いたのではなく、グループとグループの「間」においても続いたことを意味し、これ自体が1970年代初めにおける運動の(相対的)成功によく貢献したようであった。この時期は、多くの試験的試みを通して学んだ経験を活用する期間だったのである。ある種の「自然淘汰」のようなものが作用し始めた。運動の卵たちは、すべてが一つのかごに入れられたわけではなかったのである。

 会員が少なかったため、指導者の性格がそれぞれのグループの「スタイル」に重大な影響力をもっていた。韓国出身の初期の宣教師たちは、全員が一つの目的と文の指示に対して固く忠誠を誓っていたという事実にも関わらず、明白な個々の観点をもつ多様な人格の持ち主であり、それは大幅に異なる手段と成果をもたらした(注60)。ミス・キムは霊的現象や霊能者の現象に深い関心をもつ知的神学者であり、韓国政府の役人という経歴をもち(注61)、自分自身を戦士と自称する(注62)デヴィッド・キムとは、非常に異なる性格をもっている。デヴィッド・キムは現在、神学生たちに恐れと尊敬と献身の念を抱かせている。二人とも、軍人である朴大佐とは大きく異なっているし、また「政治家」である崔翔翊(注63)とも全く違うアプローチをした。

 今日でさえ、別のアプローチよりもあるアプローチに「反応する」タイプの人々を選択することを通して、さまざまな人物と「統一教会スタイル」が、より若いメンバーに与えている(時には非直接的な)影響力を見つけることが可能である。イギリスには、運動の神学的焦点によって魅了されたムーニーたちがいるが、これはドリス・(ワルダー)オームと彼女が運動へ導いた会員たちに引き継がれた、ミス・キムの伝統に現れている。彼らはそれ自体が崔の伝統の中にあったダースト管理下のカリフォルニアで好まれた、あふれんばかりの情熱によっては、おそらく魅了されなかったであろう。反対に、「オークランド・ファミリー」のメンバーたちはしばしば、「英国人ファミリー」について、冷たくて魅力的でないと報告してきた。他方で、西洋のムーニーのエリートである神学生たちは、デヴィッド・キムの統括の下で広範囲な影響にさらされ、彼ら自身がどこで入会したかにかかわらず、どちらの方向性に対しても批判的になる傾向がある。

 これらの異なる「スタイル」は1960年代にさらに助長されたが、それは国家次元の運動を構築するための一連の試みが総じて不成功で、異なるグループが互いに自律的な状態に留まり、グループ間に相当の競争があったという事実によるものである(注64)。(実際に、1967年6月に「日本人ファミリー」として知られていた崔翔翊のグループは、「国際統一教会」として法人化(ミス・キムの世界基督教統一神霊協会とは別法人)することによって、その自律性を主張した(注65)。

 ミス・キムは、自分の最初の改宗者と共に1960年にベイエリアに移った。1963年半ばまでに、彼女のグループは21人の改宗者を獲得した。これらは基本的に白人プロテスタントで・・・何人かは大学教育を受けており、大部分は下位中流階級で小さな町出身のアメリカ人であり、残りは移民たちだった(注66)。初期改宗者の大部分は20代後半か、30代前半だった。例外的に一人は17歳だった。当時、西洋(合衆国とドイツ)全体で、運動のメンバーは35人くらいだった。一年後には推定で少なくとも120人の改宗者がいた(注67)。これら新入会員についてのロフランドの査定は、次のとおりである。

 社会的・言語的能力において著しい向上があった。・・・部外者はもはや(メンバーたちを)訳の分からない宗教に群がっている病的で無能な人々として簡単に片づけることができなくなった。そのカルトは、自身に立派な装いを与えることのできる改宗者を獲得しつつあった・・・これは、多くの新しい改宗者たちが肉体的・精神的な傷をさほどあからさまに負っていなかったということに過ぎない。彼らはみな、改宗前と同じように悩める人々であっただろう。非常に立派で有能な新しい改宗者たちは、単に上手に包帯を巻かれ、公衆に表示するために作り上げられたに過ぎない(注68)。

 1965年にヨーロッパを短く訪問した後に、ミス・キムは朴大佐に加わるためにワシントンへ行き、ベイエリアの運動は、ロフランドが『終末論を説くカルト』に記述しているものとは非常に異なる姿勢を取った。これは部分的には、変化しつつある環境に対応したものだった。ベイエリアは、1960年代後半に西洋の若者に影響を与えていた変化の先頭に立っていた。例えば、バークレーのカリフォルニア大学で学生の抗議行動があったり、サンフランシスコのヘイト・アッシュベリー地区にヒッピー・コミューンがあったりした(注69)。しかし、カリフォルニアにおける運動内の変化は、ミス・キムと崔氏の異なる人格と経験のゆえでもあった。ミクラーはこれら2つの期間を次のように詳細に対照させている。

 もし60年代半ばがベイエリアにおける統一教会にとって移行期であるとすれば、60年代後半は変容期だった。この変容は、最も根本的に、急激に変化した会員のプロフィールとアプローチに反映されていた。以前はメンバーはより年上で、しばしば既婚者であり「定着していた」のに対し、60年代後半に強調されたのは若者だった。この期間に入会したメンバーたちは、大部分が20代前半であり、未婚で恋人もいなかった。同時に、以前は教会はそのメッセージを宣布することを気に掛けていたが、60年代後半における強調点は活動に置かれていた。ある教会の文書には、「救いとは、天国について話すことではなく、それを実現することである」と書かれてあった。・・・60年代後半の教会を推し進めていた力は、神学的というよりは教育的であり、最終的にはユートピア的だった。・・・霊能者や預言を通してよりむしろ、「国際的な理想都市」建設のための途方もない努力を通して、希望や興奮が生み出されたのである(注70)。

(注57)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」7ページ。

(注58)ロフランド『終末論を説くカルト』66ページ。 (注59)例えば、コージン「韓国と英国おける宗教セクト」93ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」6, 96-7ページ。サローネン「アメリカ統一教会の歴史」169ページ。

(注60)ソンターク『文鮮明』90-1ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」189ページ。

(注61)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」189ページ。

(注62)同書、207ページ。ソンターク『文鮮明』91ページ。

(注63)ソンターク『文鮮明』9ページ。

(注64)これは、ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」の数カ所で明らかにされている。例えば、89, 109, 146ページ以下。特に、150, 180ページ以下。特に、184ページ。

(注65)同書、109ページ。

(注66)ロフランド『終末論を説くカルト』32ページ。

(注67)同書、36-42, 257ページ。

(注68)同書、259ページ。

(注69)とりわけ、C・Y・グロックとR・ベラー(編)『新しい宗教意識』バークレー、カリフォルニア大学プレス、1976年。R・ウースナウ『意識改革』バークレー、カリフォルニア大学、1976年。R・ウースナウ『アメリカの宗教における実験:新しい神秘主義と、教会に対するその意味』バークレー、カリフォルニア大学プレス、1978年。

(注70)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」91-2ページ。

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