神学論争と統一原理の世界シリーズ03


第1章 神について 1.神は男性か女性か?

神は男性か女性か? 一見単純で幼稚にさえ聞こえるこの問いかけが、実は現代キリスト教においては大問題なのである。日本では、イザナギ・イザナミの神話に代表されるように男性神と女性神の両方が存在し、女神の存在はポピュラーだ。同様に多神教の文化圏では男女両方の神々が存在し得る。

しかし一神教となると、どちらか一方に性別を決定しなければならない。一神教の代表選手であるキリスト教の歴史の中には、神には男性と女性の両方の性質があると見る教団もなくはなかった。しかしそれらはいずれも少数派であり、伝統的には神は「父」であり、男性格であった。

伝統的なキリスト教神学の論理によれば、神が男性であるがゆえにキリストであるイエスは男性であったし、神とキリストの代身である教皇・司祭・牧師もまた男性でなければならない。しかし女性解放運動が誕生して以来、あらゆる領域における男性中心主義に対して批判が高まり、それは今や神学の領域にまで浸透している。

 

フェミニスト神学者の台頭

アメリカは「男女平等」に関しては最も徹底した社会であり、今や女性差別発言は命取りになる。これはちょっとした言葉遣いに至るまで実にうるさい。例えば不特定の人物を代名詞で受ける場合、“he”のみで受けると女性格が含まれていないと批判されるので、必ず“he or she”と言わなければならない。それから英語の“man”には「人間」と「男」という二つの意味があるが、最近は人間を表すときに“man”という言葉を使うと、「人類は男性だけによって代表されるのではない!」と怒られる。挙げ句の果てには、道端のマン・ホールまで女性差別用語だからパーソン・ホールにしなくてはいけないという論議まで飛び出すほどである。

学問の世界でもこういった言葉遣いに気をつけないと、たとえ主張の内容が素晴らしいものであっても、“sexist(性差別主義者)”というレッテルを張られて、話を聞いてもらえないという現実がある。このような社会の中で、神の性別を男性に限定し、女性の性質を排除するなどということは、とんでもない暴論ということになる。

聖母子像1

聖母子像2 キリスト教美術における聖母子像。イエスを抱くマリヤの姿は女神のようである。

1960年代の後半以来、このような批判を先頭に立ってなしてきたのが「フェミニスト神学者」と呼ばれる人々だ。彼ら(または彼女ら)は、伝統的なキリスト教の神観は、男性中心社会の産物であると主張した。すなわち神学も文化の影響をまぬがれ得ず、神概念にはその時代や社会において価値視されているものが投影されているというのだ。このような運動の結果、現在ではアメリカの主流のプロテスタント教会においては男性中心主義的な神学は支持を失いつつあり、女性が牧師として叙階される権利を勝ち取っている。

しかし伝統のある宗教ほど保守的であり、神学の修正は難しい。カトリック教会では、女性の司祭はたぶん今世紀中には誕生しないだろう。(注1)ところが、神に許しや慰めなどの母性的な側面を求めるのはほとんど人間の本性ともいえるもので、カトリックでは聖母マリヤがこの働きをしてきた。マリヤは神学的には神ではないが、信徒たちにとってはほとんど女性神と同じ働きをしてきたと言えるのである。

 

父なる神から父母なる神へ

もし神が親であり、それが父親としての側面しかもたないなら、人類はみな片親しか持たない子供になってしまう。ちょうど家庭においては、父親の愛と母親の愛によって愛のバランスがとれて子供が育つように、神の愛においても父性的な愛と母性的な愛が十分に表現されていなければ、愛としては歪んだものになってしまう。
「統一原理」は、創造主なる神には男女両方の性質があると主張している。しかしこれは男と女の二人の神がいるという意味ではなく、唯一なる神の中に男性と女性の両方の性質が存在しているということである。だが、男性であると同時に女性でもあるなどということが、果たして可能なのだろうか? これは我々人間を観察してみればよく分かる。例えば私が個体として男性だったとしても、女性的な要素を全く持たないわけではなく、私の中で男性・女性の二つの要素は、表・裏のような関係で共存している。【図1】

【図1】
心理学者のユングは、このような男性の中にある女性的要素を「アニマ」と呼び、女性の中にある男性的要素を「アニムス」と呼んだ。彼によれば人間は本質的に両性的存在であり、個体として男であるか女であるかというのは、男性的要素と女性的要素のどちらがより主体的に働いているかということに過ぎない。

このように男性・女性というのは全く異質な性質ではなくて、一つの個体の中に相対的な属性として存在している。これは、すべての存在の原因者である神自体の中に、男性と女性が相対的な属性として存在しているためである。統一原理ではこれを「陽陰の二性性相」と呼んでいる。「統一原理」の「二性性相」の思想は、従来の伝統的な「父」としての神観が抱えていた問題を解決する、画期的な思想なのである。

 

<以下の注は原著にはなく、2014年の時点で解説のために加筆したものである>

(注1)原著が出版された1997年の時点ではまだ20世紀であり、「カトリックの女性司祭は今世紀中には誕生しないだろう」という筆者の予言は成就した。21世紀に入った2014年現在でも、カトリック教会では女性は司祭に叙階されない。これを批判するフェミニストがいることは当然だが、カトリック教会側はあくまでも教義に基づく制度であるから「女性蔑視」ではないと説明している。

カテゴリー: 神学論争と統一原理の世界 パーマリンク