シリーズ「人類はどのようにして信教の自由を勝ち取ったか?」第8回


結論
人権思想を基盤とする民主主義制度がキリスト教文化圏の中から生まれたことは決して偶然ではない。それはイエス・キリストの説いた「隣人愛」を実践するための社会制度にほかならないからである。イエスは言われた:

シナゴーグで教えを述べるイエス(ドレの版画)

シナゴーグで教えを述べるイエス(ドレの版画)

「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ 22:37-39)

もし人が神を愛し、その神が全人類の親であることを知り、全人類が同じ神の下にある兄弟姉妹であることを知るならば、隣人を愛し、尊重せざるをえないであろう。そのような信仰が人権思想の基本をなすのである。

しかしながら人類は、この単純な原理を実践する社会を作るために、あまりにも多くの血を流してきた。本稿の中で紹介したいくつかの国の事例からも分かるように、「基本的人権」も「信教の自由」も、長い闘争の歴史の末にようやく勝ち取られたものなのである。特に我が国の場合には、キリスト教自体がながらく国家によって「信教の自由」を踏みにじられ、むごたらしい迫害を受けてきた。

切支丹弾圧の犠牲となった長崎の26聖人

切支丹弾圧の犠牲となった長崎の26聖人

一般的な日本人において、「信教の自由」と「人権」に対する意識が乏しいのは、恐らくこうした権利を自ら戦って勝ち取った歴史的経緯がなく、敗戦の結果として一方的に与えられたものであるからであろう。しかしながら日本のキリスト教は、キリシタン時代の迫害から始まって第二次大戦の終了に至るまで、数多くの迫害を乗り越えてきた歴史的背景を持っているはずである。自らの信じるものを否定され、しかも暴力的行為によって棄教を強要する行いが、如何に野蛮で非人道的なものであるかは、自らの歴史を振り返れば分かるはずである。その彼らが、他者の信仰を頭ごなしに否定し、暴力的行為によって棄教を強要する側に現在立っていることは、歴史の皮肉と言わざるを得ない。

統一教会の信者を拉致監禁し、棄教を強要する活動を行っているキリスト教牧師たちは、自らの背後にある長い歴史を振り返り、同じ過ちの反復を一刻も早くやめなければならない。

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