アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳20


第2章 統一教会:その歴史的背景(7)

西洋における文

文自身が(もし我々がいくぶん人工的に彼の教えから彼を分離することができるとすれば)、1972年以前の西洋における自分の運動に対して直接的に行使した影響力は、比較的小さなものだった。草創期を通してメンバーたちは、文が彼らを訪ねてくれることを望み続けていた。1959年、1961年、1964年の期待がはずれた後、ついに彼は1965年に最初の世界巡回を行った。この期間中、彼は多くの集会で話し、合衆国全土のセンターでメンバーやゲストからの質問に答えた。これらの会合の記録は、「マスター・スピークス」のタイトルで内部に配布された一連の記録の最初のものとなった。文はまた驚異的に多くの観光を行った。彼は霊能者アーサー・フォードと同席した(注113)。そして、ワシントンにいる間に彼は、運動を紹介し支援を求めるために多くの政界の実力者を探した。これらの人物の中で最も著名なのはドゥワイト・D・アイゼンハワー元大統領だった(注114)。しかしながら、この世界巡回の中で最も意義あることの一つだとメンバーたちがみなすようになった業績は、120カ所の聖地(注115)の決定であり、そのうちの55カ所(注116)が米国にある。

2章56ページ

1965年に聖地を設定するためにインワン山を登る文と弟子たち(2章56ページ)

文の次の世界巡回は1969年に行われた。この訪問のハイライトは、韓国の外で行われることになった最初の合同結婚式、つまり「祝福」だった。13組のカップルがワシントンで祝福され、二週間後にさらに8組のカップルがドイツで祝福された。この後者のグループには、1970年代のヨーロッパのナショナル・リーダーたちを生み出すことになった夫婦チームの数カップルが含まれていた。さらに22組のカップルが翌月に日本で祝福された(注117)。3度目の世界巡回は1971年の終わりに始まった。この巡回の終わりに文はアメリカに戻り、その国はそれ以降ずっと彼の基盤であり続けた。より初期の巡回の期間中に彼が何らかの変化を引き起こし、メンバーが熱狂する機会を提供したことは確かだが、彼が合衆国に定着したことが、統一教会を全く新しい時代へと導き入れたことは明らかである。

3度目の世界巡回は、アメリカの運動による総力戦伝道の3年間の始まりと、文の牧師としての職務の新しい段階を示すものとなった。彼はそれまで西洋において公に話したことはなかった(注118)が、続く数年間にわたって彼はヨーロッパ、北米全土の都市で数十万人の人々によって見聞されることになり、彼がマスコミの注目を集めたことにより、文の名前は多くの人々によく知られるようになった(注119)。これらの巡回のためには組織が必要であったため、それが多様なグループを統一して全国的な運動を形成する上で一つの中心的な役割を果たした。しかし、その背後で、文自身がまさに主導権を握るためにやってきたという事実も存在していた。二つのグループが今後どのような関係になるのかを尋ねられたとき、文は「サタンとアメリカのファミリーの分裂に対してハリケーンのように激怒して」次のように言ったことが報告されている。「それらは一つである」と彼は大声で言った。「ミス・キムのグループも、ミスター・キムのグループも、ミスター崔のグループもない。それらは全部ミスター・ムーンのグループだ。宣教師たちは韓国へ呼び戻されるだろう。メンバーたちは入れ替えられ、メンバー全員が私の訓練を通過するだろう。あなた方の会長であるフェアリー・ジョーンズでさえも」(注120)。

運動のすべての構造と組織が変わった。3つのグループすべてのメンバーが異なる地域の異なる「使命」へと移された。特別訓練プログラムが設定され、「韓国で教えられた通りの原理」についての講義が行われた(注121)。特別に選ばれて訓練されたメンバーたちは、1972年2月にニューヨークのリンカーン・センターから始まる全米7大都市における文の復興集会の準備をするために送られた(注122)。「開拓者たち」は、チケットを売るために街頭で8~12時間を費やし、それぞれの都市の地方メンバーたちは日程を決め、ホールを借り、ポスターを印刷して、ありとあらゆる方法でそのイベントを宣伝した。最後の都市であるバークレーでは、初めて満席となった(注123)。

公の講演での文のアプローチは、他の活動家たちのそれとさほど違いはなかった(注124)。彼は統一教会の信条のキリスト教的側面を強調し、アメリカが再び神に帰るよう呼びかけた(注125)。メシヤの到来が宣言されたが、聴衆は、メシヤを認識することに失敗すればキリスト教に希望はないだろうということ以外には、この主題について多くの情報を与えられなかった(注126)。文の講演スタイルは非常に開放的であった。信者たちは顔を輝かせながら席に着き、彼の一言一句を熱心に傾聴したであろう。しかしながら、すべての聴衆が信者たちのように熱心に彼の話を聞くわけではない。何人かはその大声がヒットラーを思い起こさせるとか、他の者たちは全体的に少々格好悪くて滑稽だとか、全くもって退屈だと感じた。一つの問題は、文が公に話すときはほとんど常に韓国語であり、しかも原稿を使うことがほとんどないということだ。四苦八苦している彼の通訳は次のように書いている。「彼は神霊が彼を通じて現れるままに、完全にそれによって話すので、彼のメッセージの内容はしばしば都市毎に異なっている・・・私はどれだけのものが通訳によって失われたかを知る唯一の人物なので、本当に心が痛くてたまらなかった」(注127)。

2章58ページ上

1974年にアトランタで聴衆に講演する文。右は文の通訳・朴大佐(2章58ページ上)

2章58ページ下

米連邦議会で上下院議員および補佐官に向けた文の説教を知らせるポスター。(2章58ページ下)

ポスターの表示の日本語訳は以下の通り:
「神の摂理の中のアメリカ」
文鮮明師が「神の摂理の中のアメリカ」の題目で講演
ダークセン・オフィスビルで来る火曜日
どなたでも歓迎
1974年10月8日 8:30AM
(8:00-8:30AM 簡単な朝食)
ダークセン・オフィスビル1202号室
入場無料

2章59ページ

1975年、韓国での「希望の日フェスティバル」を知らせるポスター。

下の写真は(左)ニュー・ホープ・シンガーズ・インターナショナル、(右)韓国民族舞踊団。(2章59ページ)

拡大と反対

1970年代初期に生じ、地域ごとのグループを全国的な運動へと統合するために貢献した革新的な出来事の一つは、バスで全国を旅して回る人々の小さなチームができたことだった。「州代表」と地方センターが連携して、これらのチームは伝道目的のために1972年に初めて編成された。それらはワン・ワールド・クルセード(OWC)と呼ばれ、1973年初期にヨーロッパと日本出身のメンバーが加わってインターナショナル・ワン・ワールド・クルセード(IOWC)が編成された(注128)。

しかし、これはすべて資金を必要とした。巡回のたびに数十万ドルの費用がかかり、8大都市ツアー(1974年9月18日のマジソン・スクエア・ガーデンでの大規模な大会を含む)には、100万ドルの予算が当てられたと報告されている(注129)。積極的に売り込む形の伝道活動に伴って、同じくらい積極的なファンドレイジング・キャンペーンが行われるようになるのに、さほど時間はかからなかった。一軒一軒の訪問販売は、早くも1961に試みられた(不成功に終わった)が(注130)、1972年までは、西洋における運動は、主に小さな教会企業か、外部の雇用から得られるメンバーの収入からの十分の一献金のどちらかに頼ってきた。突破口はほとんど偶然に、メリーランドのメンバーがどうすれば「寄付」を獲得することができるかをふと思いついたときにやって来た(注131)。彼らは他のセンターに売るために数千本ものろうそくを生産した。1972年の夏、メンバーたちはニューヨーク州テリータウンにある22エーカーで85万ドルの不動産「ベルベディア」の頭金として、29万4千ドルを稼ぐようプレッシャーをかけられていた(注132)。「ろうそく工場」はさまざまなセンターに設置され、「急行ろうそくワゴン車」は、まだ温かいろうそくを他のセンターに運んだ。各々15人くらいのメンバーからなる2つの機動隊チームは、一つは東海岸で、一つは西海岸で、終日ろうそくを売った(注133)。これらは移動ファンドレイジング・チーム(MFT)の始まりだった。それは運動のための莫大な収入源――1973年6月までに、一人が一週間に平均1000ドル近く販売した(注134)――となっただけでなく、次の10年間にわたって、事実上すべての新入会員の生活の一部ともなった。

2章55ページ

ニューヨーク州テリータウン、ベルベディアにある聖地の岩(2章55ページ)

(注113)A・フォード『Unknown but Known』ニューヨーク、ハーパー&ロウ、1968年、第二章、第三章以下も参照。
(注114)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」80ページ。
(注115)「聖地は特別な儀式によって、国の領土を復帰するための条件として神に捧げられる小さな土地の区画である」阿部「教会指導者のマニュアル」200ページ。
(注116)サローネン「アメリカ統一教会の歴史」170ページ。
(注117)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」164ページ。
(注118)同書、196ページ。
(注119)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部と第二部は、1972年から1975年までの文の公的出現について詳細に述べている。
(注120)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」203ページ。
(注121)同書、196ページ。
(注122)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、2-7ページ。
(注123)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」202ページ。
(注124)ウッド『ムーンストラック』141ページ。
(注125)文鮮明『原理講論』ワシントンDC、世界基督教統一神霊協会、1973年。文鮮明『キリスト教の危機:新しい希望』ワシントンDC、世界基督教統一神霊協会、1974年。文鮮明『キリスト教の新しい未来』ソーントン・ヒース、サレイ、世界基督教統一神霊協会、1974年。文鮮明「アメリカと神のみ旨」ニューヨーク、建国二百年祭ゴッド・ブレス・アメリカ委員会、1976年。文鮮明「神の摂理の中のアメリカ」ニューヨーク、建国二百年祭ゴッド・ブレス・アメリカ委員会パンフレット、1976年。文鮮明「アメリカに対する神の希望」ニューヨーク建国二百年祭ゴッド・ブレス・アメリカ委員会パンフレット、1976年。D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、第二部。
(注126)文『キリスト教の新しい未来』126-7ページ。
(注127)文『キリスト教の危機』朴普熙大佐による紹介、vii~viiiページ。
(注128)D・S・C・キム『希望の日の回想』第一部、2ページ以下、24ページ以下、228ページ以下、404ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」204, 222ページ。
(注129)ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」235ページ。
(注130)ロフランド『終末論を説くカルト』116ページ。ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」210ページ。
(注131) ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史」211ページ。
(注132)同書、212ページ。
(注133)同書、214ページ。
(注134)同書、225ページ。

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