アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳07


第一章 接近と情報収集(3)

インタビュー

 30回の突っ込んだインタビューが、間隔を置きながら1977年を通して行われた。それらはたいてい、無作為に選ばれたムーニーがたまたま生活しているセンターの静かな部屋で行われた。インタビューはすべて録音され、後でその録音は文字に起こされた。ほとんどが6時間から8時間かかり、最も短いもので2時間をやや下回り、最も長いものは12時間の長丁場になった。時折コーヒーとサンドイッチの休憩をとったが、私はできる限り中断を少なくするよう試みた。インタビューは準備されたスケジュールの概要に従って行われたが、実際の話題の順番はかなり柔軟なものだった。われわれは比較的形式的に、インタビューされる人の背景についての率直な質問から始め、それからだんだんとリラックスして、まるでインタビューが終了したかに思えるほどまでになった。(私が収集したデータのうちで最も有用なものは、方向づけのない会話の中から生まれた。)常に、ムーニーが自分の「証し」をする時間があった。それは、彼がどのようにして運動に加わるようになったのか、そしてそれが彼の人生をどのように変えたかを、繰り返し話すことを通して洗練された方法で説明することである。われわれはその人の子供時代について話す時間をかなり多く費やした。それは確かに何らかの価値があったが、情報それ自体の価値というよりは、ムーニーがわれわれはもはや赤の他人同士ではないと感じることができる雰囲気をつくるのを助けたからである。その後でわれわれは、運動の中での生活について話すことに移り、最後に私は、そのメンバーが自分のしていることに対して、どのような、そしてどの程度の深さの理解を持っているかを探ろうとした。

参与観察

 インタビューの合間に、そして以後6年間に渡って時折、私は「参与観察」にも携わった。これはメンバーと共にいろいろなセンターに住むことを必要とした。私はまた、一連のセミナーあるいは「修練会」にも参加したが、そのうちのいくつかはメンバーになる可能性のある人々のためのものであり、その他には学者や父母のためのものがあり、さらに通常はメンバーだけに制限されているものまであった。私は北米の数多くの統一教会センターを訪問した。西海岸では研究の初期に、私は神経質にも、もし悪名高いキャンプK(第4章参照)で過ごす週末休暇から帰ってこなければ救助してくれるよう、サンフランシスコの友人に指示を残した(注8)。後に私は、こんどはなんのためらいもなく、ブーンビルにある同じく悪名高い農場へ行くことになった。東海岸では、ニューヨーク市とニューヨーク州にあるさまざまなセンターを訪問した。ベリータウンの統一神学校に滞在し、ハーレムの「ホーム・チャーチ」エリアにも連れていかれた。私はスカンジナビア半島の4カ国すべての新宗教運動を研究するための補助金を得たし、どの国に行くことになったときにも、努めて地方の統一教会センターを訪問することができるよう試みた。  関心や手法の多くは重なり合ってはいるものの、社会学者たちは多くの点で自然科学者とは異なっている。これは部分的には、違う種類の問いを発することに原因がある。化学者は、分子が特定の作用を起こしているときに何を「感じる」かについて見いだそうとはしないが、社会学者が自分のデータが何であるかを描写したり、ましてや理解したり説明したりしようとすれば、ある程度の主観的理解は必要である。他の人々の観点から世界がどのように見えるかについて、ある種の共感的な理解を得ようとする試みにおいて用いられる方法は、しばしば「verstehen(理解社会学)」と呼ばれる(注9)。

 両者はしばしば混同されるが、共感は必ずしも賛同を意味しない。「verstehen」は、他者の眼鏡を通して世界を見るために、研究者が他人の立場で考えようとしたり、別の例えを用いようとしたりする、探究の過程のことである。彼は、自分が研究している人々の行動や認識が意味を持ち始めるように、彼らの世界がそれを通して見られているところの仮定あるいは「フィルター」を認識しようと試みるのである。明らかに、これを用いるのは場合によって非常に簡単であったり、そうでなかったりする。十代の子供をもつ母親として、私は出会ったほとんどの親たちの気持ちを即座に理解するのにほとんど困難を感じなかった。私の他の研究テーマでは、もう少し時間がかかった。最初にカリフォルニアの若いムーニーが突進してきて、永遠の愛を宣言しながら私に抱きついたとき、私は実にイギリス人らしい恐怖を感じて後ずさりし、われわれはまだお互いに自己紹介もしていないはずだと抗議するのを、かろうじて止めることができただけだった。

 参与観察者として私が演じた役割は、研究の過程において三つの異なる段階を通過したことに気付いた。最初に、見たり聴いたりする以外にほとんど何もしなかった受動的段階があった(台所で食器洗いをするのは常にこのためのよい場所だった)。次に、不快感を与えることなしに会話に加わることができるほどに、自分が統一教会の視点に精通していると感じた相互作用的段階があった。ムーニーたちはもはや私のためにすべてを「翻訳」しなければならないと感じることがなくなったし、ときには私を知らないムーニーたちが私をメンバーだと思うこともあっただろう。最後に積極的段階があった。第一段階で社交のための言語を学び、そして第二段階でそれをどのように使うかを学び、第三段階で私はその多様性と範囲、その可能性と限界を探索し始めた。私は、初期の段階では研究を続けられなくなると困るのであまり大きな声で話すことを恐れていた厄介な問題を、すべて論じ質問した。もはや私が理解していないと言うことはできなくなった。なぜなら、少なくともある意味で、私はあきらかに多くのことを実際に理解していたし、質問するときに統一教会的な議論を用いていたからである。こうする中で私は何人かのムーニーを怒らせ、また別の何人かを悲しませたが、私の徹底的な質問を許容しただけでなく、彼らとその運動が直面している問題を、驚くべき率直さをもって実際に議論する人々がいた。

 もちろん相互作用的段階においてさえ、私がムーニーでないということは知られていた。私は一度もメンバーであるふりをしたことはなかったし、メンバーになりそうなふりをしたこともなかった。私は時には曖昧であったし、もちろん心の中にあることを常にすべて言ったわけではないということは認めるが、意識的にムーニーに嘘をついた記憶はない。非メンバーとして知られていることは不利であったが、運動を去った人々と話すことによって、私は一般会員たちに入手可能ないかなる内部情報も見逃してはいないということを確認することができた。同時に、「内部」にいる部外者であることには計り知れない利点があった。私は、メンバーが指導者にも同僚にも敢えて尋ねないような質問をすることが許された(そう期待される場合さえあった)。さらに、自分たちの問題が指導者によって理解されていないと感じながらも、よもや両親や他の部外者に話すことによって運動に背信することなど夢にも思ったことのない数人のムーニーたちは、私が組織的にも感情的にも関わりをもっていないという正にその事実のゆえに、私を信用して秘密を打ち明けることができた。どの個人が、日常生活の些細な悩みによって不満をもっていたか、あるいは不幸にも運動の実践のいくつかに疑問をもっていたかを報告するのは、私の仕事の一部ではなかった。私はただ耳を傾けた。事情を知っていながら、裁きもせず、秘密を漏らしもしない者に対しては、恐れや恨みを表明することができたのである。さらに私は、一定の「秘密」情報を受け取る者であり、私がそれを求めなくても、少人数にしか配布されない教会文献のいくつかを、しばしば与えられているということが分かった。

講義に参加する著者(1章19ページ上)

講義に参加する著者(1章19ページ上)

インタビューの様子(1章19ページ下)

インタビューの様子(1章19ページ下)

 

 

 

 

 

 

(注8)Kは韓国(Korea)を表すと聞いた。

(注9)マックス・ウエーバー『社会経済的組織論』編・訳、タルコット・パーソンズ 、トロント、フリー・プレス、1964年(初版は1947年にニューヨークにあるオックスフォード大学出版による)を、Verstehen(理解社会学)の古典的議論のために参照。

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