アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳03


序文(2)

それでは、統一教会についての基本的事実とは何だろうか。

それは、世界基督教統一神霊教会の名のもとに、1954年に文鮮明師によって韓国で設立された宗教運動である。その神学である『統一原理』は、旧約聖書と新約聖書の特別な解釈に、文が受けたと主張する啓示が加えられたものである。それは、メシヤ信仰と至福千年説に基づく神学であり、信者たちに対しては、地上に天国を復帰するためにメシヤの指導の下で働き、信仰的従順をもってその指導者たちに従うことを要求する。

宣教師は1959年に初めて西洋に来たが、その運動は文自身が米国へ移住した1970年代初期まで、アメリカやヨーロッパにおいてはあまり成功しなかった。中心的メンバーはたいてい教会センターで生活して、専属で運動のために働き、しばしば文書や花、その他の物品を街頭で長時間販売している。しかしながら、統一教会の信仰に共感しながらも自分自身の家に生活して、「普通の」職業に就いている「ホーム・チャーチ」メンバーもいる(注7)。婚姻関係以外では厳格な禁欲が求められており、実際には、結婚後も一定期間は禁欲が求められている。結婚の相手は文によって推薦され、数百、数千組もの合同結婚式が行われてきた。その運動のものの見方は、強烈な反共主義である。それは高価な不動産や多くの企業(主に韓国、日本、欧米に)を所有している。それはさまざまな公演芸術や、学術目的の国際会議を後援しており、ニューヨーク州では神学校を、韓国ではリトル・エンジェルス学校を経営している。

既に指摘したように、その運動は特にメンバーの父母、メディア、より正統的宗教の信奉者など、多方面からかなりの反感を引き起こしてきた。それはメンバーを獲得し維持するために、洗脳テクニックを使っていることで非難されてきたし、メンバーは指導部のために巨額の資金を獲得する目的で無慈悲に利用されていると言われている。それは不法に国境を越えて資金やメンバーを動かしたことで批判されてきた。それは家庭を破壊し、そのメンバーに身体的・精神的な被害をもたらすと言われている。

驚くほどのことではないが、ムーニーの自己像と統一教会像は、部外者の慣習的な知恵とは合致しない(しばしばその直接的鏡像なのであるが)。外部の視点からは、統一教会は服従と搾取と物質主義を強要しているように見えるが、ムーニーにとっては、それは自由と機会と霊性を与えてくれる。部外者にとって、それは分裂と絶望と詐欺と混乱の運動であるが、ムーニーにとっては、統一と希望と真理と悟りの運動なのである。部外者が統一教会は悪で、間違っており、悪魔的であると信じる一方で、ムーニーはそれが善であり、正しく、神聖であると信じているのである。

もちろん、このような描写がそれぞれ示すほど世界が単純なものであることは滅多にない。社会機構が明白に善か悪であるとか、社会活動が単純に正しいとか間違っているとか、人間行動というものが理性的に考え抜かれた動機の直接的結果であるとか、人間の信仰が系統立っているとか首尾一貫しているということは希である。われわれは全く意図していなかったことをやっている自分を発見することがあり、われわれがすることが意図も予想もしなかった結果をもたらすことがある。社会的相互作用は複雑であり、期待やルールや支配の枠組みが常に変化する中で絶えず再交渉をしている、やっかいなプロセスなのである。しかしそうであったとしても、人間の状況には何らかの秩序が存在する。たいていの社会現象は、もしわれわれがより接近して見ようとすれば、より明瞭に理解することが可能である。しかしながら、人間のプロセスの明確化が、単純化であることは滅多にない。  本書は、なぜ、いかにして、誰かがムーニーになり得るのか、という冒頭の疑問に対する解答を明らかにすることに主たる関心を持っている。多くの人々にとって、誰かがムーニーになることを「選択」するなどということはあまりにも信じられないことに思われるので、その疑問の最も簡単な解明は、そもそもそのような選択が成されるということを否定することである。それは以下のように仮定することである。ムーニーたちは洗脳され、マインド・コントロールされており、ある意味で強制されている。誰も正気の状態ではムーニーになりたくないのだろうから、ムーニーになるということは、回心者自身がそうしようと決定することというよりも、むしろ他者が被害者に対してする何かの結果であるに違いない。その被害者は受動的な対応者であり、積極的な行為者ではないのだ。  洗脳のテーゼは明らかに単純化の利点をもっている。一見したところそれは、そうでなければ説明不可能なことを説明しているように見える。改宗の責任はもっぱら洗脳者が負うことになるので、それによって関係者や両親や世間は、非難を免れることができるのである。非会員の唯一の責任は、統一教会の手中から不運な、無力な被害者を取り戻すことである。ムーニーたちが洗脳されているという信念は、「ディプログラミング」の使用を正当化するために使用されてきた。それは、信者がディプログラムされて統一教会の信仰から自由になったと、彼を捕まえた人を確信させることができるまで、彼の(見せかけの)意志に反して信者を拘束することである。このように物理的力を用いてムーニーを違法に拘禁することが行われた結果、洗脳の手段を使っているのはムーニーというよりむしろディプログラマーのほうである、と論ずる人々が現れた。(注8)もちろん、それはすべて洗脳というものが何を意味するかにかかっている。

その元来の、そして最も狭義に定義された意味において、洗脳とは、政治的信条を強制的でありながらも本当に転向させるために、そしてあるいは、実際には無実である犯罪を心から告白させるために、ヨーロッパや中国の共産主義者によって使われたテクニックのことである(注9)。こうしたテクニックには投獄や拷問が含まれる(注10)。統一教会は、入会する可能性のある人々を投獄することも、拷問することもしていない。これはムーニーたちに対して(そして、次に、ムーニーたちによって)いかなる種類の強制も行われたことがないと論じているのではない。しかしそれを提案するためには、もしそれが本当に起こっているのであれば、われわれはそのプロセスがどのように作用するのかについてもっと知る必要がある。何人かのディプログラマーたちが用いた身体的虐待でさえ、1930年代にロシア人が、あるいは1940年代に中国人が自国民に対して、あるいは朝鮮戦争の期間中にアメリカ人捕虜に対して用いられたものに匹敵するとは言い難い(注11)。われわれが問う必要があるのは、物理的な力を伴わない「強制的されたものでありながらも真の回心」というものが何を意味するのかである。

その大衆的かつ最も広義に定義された用法では、「洗脳」という言語はほとんどあらゆる種類の影響、あるいは他者に影響を及ぼすための試みに当てはめられてきた。1983年5月14日付『タイムズ』誌の第一面の見出しには、「トーリー党の洗脳者にご用心、とフット労働党党首が言う」とある。われわれは全員が、社会、両親、メディア、宣伝、買いたくもない保険を売りつける男によって洗脳されている。しかし、もしこれが洗脳の意味することのすべてであれば、われわれは単にわれわれの疑問に対する解答をうまく言い逃れただけでなく、疑問そのものを取り除いてしまったことになる。ムーニーが用いている洗脳テクニックは、テレビのコマーシャルが人々を新しいブランドの歯磨きに「転向」させるテクニックと同じだ、と簡単に断言するのに全く時間はかからない。なぜ誰かがムーニーになるのかは大部分の者とって理解しがたい、というまさにその事実のゆえに、われわれはそのような回心が起こるプロセスと、その他の、おそらくさほど重要ではない、他の影響とを区別できるようになりたいと思うのである。

該当で文書を売るムーニー(序論4ページ、5ページ)

該当で文書を売るムーニー(序論4ページ、5ページ)

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(注7)会員のさらなる分類は、最近次のように区別して紹介されている。(a)準会員、(b)実践会員、(c)正会員。最後のグループはホーム・メンバーとセンター・メンバーさらに分かれている。準会員が署名する声明の文面は、第9章の注9を参照のこと。
(注8)例えば次を参照のこと。リー・コールマン「新宗教と『ディプログラミング』:誰が誰を洗脳しているのか?」謄写版印刷物、バークレー、カリフォルニア州、日付なし。「信仰を破壊する精神医学」謄写版印刷物、バークレー、カリフォルニア州、1983年(『統一教会ニュース』3月号、4月号、5月号、6月号に掲載された縮小版)。また、H・リチャードソン(編)『ディプログラミング:問題の記録』、ニューヨークのアメリカ自由人権協会およびトロント神学校の宗教的ディプログラミングに関する会議のために準備されたもの、1977年。H・リチャードソン(編)『新宗教と精神衛生』ニューヨーク、エドゥイン・メイン・プレス、1980年も参照のこと。
(注9)アルバート・ソミット「洗脳」、デヴィッド・シルス(編)『社会科学の国際百科事典』第三巻、ニューヨーク、マックミリアン、1968年、138ページに掲載。以下も参照のこと。ロバート・ジェイ・リフトン『思想改造と全体主義の心理学:中国における「洗脳」の研究』ニューヨーク、ノートン、1961年、エドガー・H・シャイン『強制的説得』ニューヨーク、ノートン、1961年、デニス・ウイン『操られる精神:洗脳、条件付け、植え付け』ロンドン、オクタゴン・プレス、1983年。
(注10)リフトン『思想改造と全体主義の心理学』、シャイン『強制的説得』、ソミット「洗脳」、ウイン『操られる精神』。
(注11)パワー『ディプログラミング:信仰の建設的破壊:技術マニュアル』1975-6年。それはテッド・パトリックの手段を暴露する意図で、サイエントロジー教会のメンバーによって作成されたパロディ。(テッド・パトリックとトム・デュラック『われわれの子供を去らせよ』ニューヨーク、ダットン、1976年を参照)。パワーの著作でさえ、例えばリフトンの『思想改造と全体主義の心理学』に記述されている残虐行為の類を弁護しなかった。

 

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