キース・ロバーツの「回心の社会学的研究」より


キース・A・ロバーツの『社会学的視点から見た宗教』は、アメリカの大学および大学院において宗教社会学の教科書として広く用いられている。この教科書の第五章「回心と献身:社会学的視点」は、宗教的回心の問題を取り扱っているが、「洗脳」および「マインド・コントロール」の問題、および宗教的回心における個人の主体的判断の問題に関して、以下のように述べている。以下に抜粋する内容は、主流の宗教社会学において、「洗脳」や「マインド・コントロール」といった概念が科学的根拠のあるものとして全く認められていないことを理解するうえで大変役立つと思われるので紹介したい。

 

Keith A. Roberts, Religions in Sociological Perspective 2nd Edition の部分訳

㈰101右側ニ段落目〜103ページ右側二段落目

回心、洗脳、および新宗教運動

回心(conversion)という言葉は、人生における方向性を“転換する”あるいは変えるプロセスのことを言う。限定的には、それは世界観の変更を指している。それはしばしば突然の危機的出来事であると見られるが、そのプロセスはゆるやかなものでもあり得る。いずれにしても、回心とはある人が自分について抱いているイメージを変容させることを意味する。この変化はしばしば名前の変更によって象徴される(たとえば、キリスト教の伝統においてはサウロがパウロになり、より最近では、イスラム教の伝統においてカシウス・クレイがモハメド・アリになった)。

回心と献身に関する最近の研究のほとんどは、非伝統的なグループ、すなわち“新”宗教に集中してきた。恐らくこれは予期されたことである。支配的な社会の基本的な価値観を主張するグループへの回心は、ほとんどの人々にとってカルトへの回心ほど不可解で困惑させるものには見えない。メソジストからカトリックに回心する人は、ひどく非伝統的な行動や“異常な”行動に携わることはなかった。自分が属していた聖公会の伝統を離れて改革派ユダヤ教の会衆に加わることは、何か珍しいという以上のことであろう。なぜなら、その変更には異なる宗教の信奉と、少数派としての地位を受け入れるということが含まれるからである。しかしながら、自分のすべての所有物を放棄してある宗教共同体に入った人というのは、平均的なアメリカ人によっては不可解という以上のものでさえあるだろう。自分の頭を剃り、ピンクのガウンをまとって、一日中「ラーマ・クリシュナ」を讃美する人は誰でも、多くの中流階級のアメリカ人にとって、ひどく当惑させ、どこか恐ろしい存在であろう。洗脳という非難は、このようなそれ以外では説明不可能な行動を、手っ取り早く説明するものであると思われる。

大衆はしばしば洗脳のテーゼに魅了されるが、多くの人々は実際に洗脳がどんなものであるかをほとんど知らない。この言葉は、社会心理学者の言語体系においては特定の意味を持っている。洗脳とは通常、ある人が非自発的にある信念体系、一群の行動、あるいは世界観を採用させられるプロセスのことを言う。一人の人にそのような変更を強制するためには、人はその個人に対して全面的な物理的支配をしなければならない。捕獲者は生活に必要なすべてを支配し、生と死そのものを支配できなければならない。被捕獲者は他に取るべき道や、他に選択の余地がないような状況に置かれなければならない。そのような完全支配の状況下においてさえ、1950年代に北朝鮮の洗脳テクニックに屈したアメリカ人兵士の数はごくわずかなものであった。そして北朝鮮と中国の拷問行為に対する黙従のほとんどは言葉だけのものであった。アメリカ人はその全面的支配状況が緩和されるや否や、彼らの以前の文化に帰ることを欲したのである。その苛酷な扱いを経験した数千人のうち、北朝鮮の思想改造によって永続的に回心したのは、十二名ほどだけであった(ファーバー他、1951:271-72)。明らかに、宗教的カルトは(メンバーの出入りが激しくあり)北朝鮮や中国によって捕えられた戦争捕虜が経験したのと同じような物理的支配をそのメンバーに対して獲得してはいない。

多くのアメリカ人が洗脳という言葉を使う時、彼らの頭の中には何らかの形態の催眠術的トランスか、神秘的なマインド・コントロールがある。それが示唆しているのは、カルトは潜在的な新入会員の精神を操作しているのであり、したがって後者(潜在的な新入会員)は知らず知らずのうちにプロセスの受動的な犠牲者のごときものになっている、ということである。回心と献身の実際の研究は、違ったことを示唆している。たとえば、ロジャー・ストラウスはカルトの新入会員は回心を選択することに積極的に関わっていると主張している。「回心という行為は、われわれの発見によれば、最終的行為ではない。むしろ、変えられるための道は変えられた行動をすることだという原理に導かれて、新しい回心者は、自己と他者にとって回心が行動的にも経験的にも真実であるようにするために働くのである。…回心者が変容した生活を経験できるようにするのは、最初の行為によるものではさほどなく、むしろそれに従って生きようとする日々の行動である」(1976:163)。研究結果が示唆していることは、新入会員は受動的な犠牲者というよりは、むしろ回心の経験を欲している能動的な探求者であり、それを起こさせるために相当な努力をしている、ということである(ステイプルとマウス、1987;ストラウス、1976;1979;ジュダー、1974;バルク、1980)。要するに、概して“新宗教”は催眠術的洗脳によるトランスに人々を陥れることに関わってこなかったということである(ベックフォード、1985;レヴィネ、1984b;ブロムリーとシュウプ、1981;バトソンとヴェンティス、1982;バーカー、1984;スタークとベインブリッジ、1985)。

それでは、なぜ洗脳とマインド・コントロールに関してそれほど多くのことが語られたのであろうか。本質的に、この争いは人的資源をめぐるものであった(ブロムリーとシュウプ、1981)。カルトは新宗教にその時間とエネルギーを費やすメンバーを獲得している。伝統的な教会は人的資源を失う。さらに、新宗教の多くは新入会員が自分たちの家族にほとんど時間とエネルギーを費やすことができないくらいに全面的な献身を要求する。実際、その宗教団体は代替的な家族単位となり、グループに対する情的献身は家族の絆に取って代わるのである。

トーマス・ロビンスとディック・アンソニー(1978)は、洗脳の比喩はこれらの非伝統的なグループを抑圧するための武器として使われると指摘する。アンソン・シュウプとデビッド・ブロムリー(1978)は、反カルト運動はカルトに関する情報を甚だしく歪曲しており、実際その攻撃は初期の魔女狩りに非常によく似ている、とまで主張する。同じことが1980年代の“悪魔崇拝”にまつわるセンセーショナリズムに関しても言えるであろう。

新しくて成長過程にある宗教運動に対して、既成勢力がそのような攻撃を加えることは歴史を通じてよくあることである。キリスト教がまだ新宗教運動であったころ、異教徒たちは、クリスチャンたちはロバの頭を崇拝し、子供たちをいけにえとして殺し、その他の凶行をなすので、キリスト教運動は危険なものであると主張した(バロジャ、1961:41)。米国においては、つい四十年前まではローマ・カトリック教徒はあらゆる種類の忌まわしい行為を行う不穏分子であると特徴付けられていたのである(ブロムリーとシュウプ、1981)。洗脳の非難は、主として新宗教運動の信用を貶め、それらを非合法で危険なものに見せるための手段である。

非伝統的なグループに汚名を着せることによって、それらは実際以上に伝統的宗教とは異なって見えるようになる。われわれが発見したことは、主流のグループと新宗教運動の回心および献身のプロセスは確かに異なっているが、それはその種類においてというよりはむしろその激しさにおいてである。宗教的セクトやカルトは通常、非常に高いレベルの献身を要求する。そのため、こうしたタイプの宗教運動の社会心理学を分析することにより、献身に関する多くのことが学べるであろう。われわれの実例の多くは、そのような高いレベルの献身を引き出すグループから得られたものである。

 

*103ページ右側三段落目〜115ページ右側一段落目まではさまざまな回心モデルの紹介。

 

@115ページ右側二段落目〜

実践主義者としての回心者

歴史的に、ほとんどの社会科学者は人間の行動のやや受動的なモデルを使って回心を説明してきた。回心とは、無意識の心理的プロセスや強制的な社会的緊張のゆえに個人に引き起こされる出来事であった(リチャードソン、1985)。確かに、“マインド・コントロール”の仮説はこの見方と矛盾しない。ロフランドその他によるプロセス・モデルは、いくぶんかこうした決定論からの脱皮を意味した。一連の出来事が働きかけ、それらの出来事の中で参加者はなんらかの選択の余地をもっており、何らかの決断をするものであると信じられている。しかし、幾人かの研究者はこれらのモデルでさえ回心者に対してあまりにも受動的な見方をしていると信じている。彼らは、これらのモデルでさえ回心を個人の外側にあるさまざまな社会的圧力の結果として描写していると感じるのである。

幾人かの社会科学者が述べてきた回心に対する見解においては、個人は目的を持って選択を行い、回心を求める積極的な行為者としてとらえられている(ストラウス、1976,1979;バルク、1980;バルクとテイラー、1976,1977;リチャードソン、1985)。

実践主義者の見解は、個人は人生の意味を求めており、彼らは自分たちのニーズを満たしてくれるであろうと信じるグループに意識的に参加する、ということを強調する。その信仰に公平な機会を与えるために、彼らはそのグループにおける役割と行動に自分自身を押し込むのである。

この視点は、続いて、役割理論に焦点を当てる。人々は回心者の役割を果たしているうちに、ときどき役割の報酬を感じるようになる。彼らはグループに投入し、彼らはその役割をうまく果たしていることによる自己満足を得るようになり、そして彼らはそうした役割を正当化し説明している思想を信じるようになるのであろう。本質的に、新入会員は自分自身を回心させるのである。しかしながら、参加した者の中には報酬に価する役割を見出せなかったり、その信仰が彼らの意図するニーズに合致しないと思ったりする者がおり、彼らは脱退する。それでも他の者はしばらくの間は期待に適った役割を見出しているが、やがて役割のパートナーが変わったり組織が進化すると、その役割は満足できないものになる。こうした人々は、その時にグループから離れていく。

この実践主義者の視点は、必ずしも後に論ずる所属グループ・モデルと矛盾するものではない。それは一つの矯正として働くに過ぎない。回心者は受動的参加者であり、彼らは自分たちのコントロールを超えた社会的圧力による無意識の「犠牲者」であると見ることは誤りである。新入会員は、彼ら自身の状況を決定する参加者である。ほとんどの社会学者は、人間を外的な刺激によって完全にコントロールされるロボットとしては見ていない。人間は自分の環境を形成するのを助ける積極的な行為者である。しかし、いかなる人間の経験解釈に対しても所属グループが非常に強力に作用するということもまた本当である。個人は積極的に自分の所属グループを選択するが、その所属グループは今度は個人が規範を決定したり経験の意味を見出すのを助けるようになるのである。もし理論家たちがこの人間の二面性のどちらか片方でも見落とすようになれば、その理論は単純で歪んだものになるであろう。

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