書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』138


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第138回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の4回目である。前回は、統一教会は献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではなく、心理的圧力によって不安状態に追い込み、認知的枠組みの転換に成功した後には、儀礼や統一教会の専門用語を通じて、不安や恐怖が持続され、固定化されるので、指導者の一声でなかば条件反射的に献金してしまうようになるだという櫻井氏の主張を紹介し、これが現実とはかい離した裁判のための理屈に過ぎないことを指摘した。続いて櫻井は、統一教会信者が信仰を獲得し、維持するプロセスについて以下のように論じている。
「統一教会のセミナーやイベントにおいて、信者は常時不安を生み出すような映像、説教、信者同士の語りにさらされている。そこで本来欲してもいなかった救済を求める心境に追い込まれ、救済の方法に関しても特定の方法しかないように思い込むに至る。統一教会において、信者は特有の言語により会話し、感情・意志を伝えるようトレーニングを受ける。特定のボキャブラリーを駆使して状況を切り抜け、展開できる信者こそ信仰のレベルが高いと評価される。そのため、古参信者や幹部はもとより、新参の信者もまたコミュニケーションする中で、一つの言語に一つの感情、一つの言い回しに一つの論理が自動的に連結するようになる。」「統一教会は特段の威迫・強迫的言動を用いずとも、信者達にとって救済のキーとなりうる一押しの言葉を語ることで様々な活動をさせることができた。」(p.395)

 ここでも「パブロフの犬」のように条件反射的に行動する哀れな統一教会信者像が語られている。いったい櫻井氏は、そうした現場を見たとでもいうのであろうか? この櫻井氏の記述でまず問題となるのは、統一教会に伝道される過程の求道者たちを常に受動的な立場としてとらえ、伝道する側によって事実上操作されているかのように描いていることだ。「統一教会の教化方法の特徴」というタイトルからも分かる通り、人が統一教会に伝道される原因は、もっぱら統一教会側の教化のテクニックに帰されており、それに対応する求道者の側に何らかの原因があるとか、それに反応する潜在的な要素があるとは前提されていない。統一教会は主体であり、求道者は客体であって、統一教会が一方的に求道者を操作してその認識の枠組みを変容させるというモデルである。これでは洗脳論やマインドコントロール論とさして変わらない。櫻井氏は人が統一教会に伝道されるということは、「本来欲してもいなかった救済を求める心境に追い込まれ、救済の方法に関しても特定の方法しかないように思い込むに至る」ことであると言いきっているが、いったい彼はいかなる根拠をもってこのようなことを断言するのであろうか?

 統一教会の伝道方法について徹底的な社会学的調査を行ったアイリーン・バーカー博士は、「ムーニーの説得力が効果を発揮するのは、ゲストがもともと持っていた性質や前提と、彼に対して提示された統一教会の信仰や実践との間に、潜在的な類似性が存在するといえるときだけだ」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)と結論している。すなわち、操作されることによって「本来欲してもいなかった救済」を求めるようになったのではなく、もともとその人が求めていたもの、あるいはそれに類似したものを統一教会が提供したので、両者が合致して信仰を持つに至ったということである。そこには求道者の主体的な取捨選択という要素があり、もし求道者がもともと求めていたものと統一教会の提示する選択肢が合致しなかった場合には信者にならないのである。そして、実際には両者が合致せずに信者にならないケースの方が圧倒的に多い。実は、このことに櫻井氏が気付いていないわけではない。櫻井氏自身が書いた論文「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察ーマインド・コントロール言説の批判的検討ー」(『現代社会学研究』1996年9 北海道社会学会)の中に以下のような記述があるからである。この論文では、西田公昭氏のマインド・コントロール理論が批判されている。
「西田もハッサンも、誰もがマインド・コントロールを受ける可能性があることを強調する。『いかなる人も例外ではない』と。ここに疑問がある。特殊な状況の下で一面的情報提供を受けたり、行動を支配されると、人はその信念まで支配されると、一般的に言い切れるのだろうか。・・・より深刻な問題は、実験結果から『人は』という主語で命題を構成するために、人間一般の認知・行動を説明することになり、誰しもがその対象になってしまうことである。しかし、社会学の理解に従えば、社会過程に登場するのは普通的な人間ではなく、地域的規定性(地理的風土)、社会的視定性(生育歴、学歴、職業歴〉、文化的アイデンティティ(エスニシティ、サブカルチャー)、政治体制等の様々な影響力の結節点として個人の生き方が現れると考えられている。個人特有の信念、社会構造的規定性が、同じ条件下の人間の行動様式を差異化させる。つまり、勧誘されても入信しないもの、加入しても信し切れずに脱会するものが出るのはなぜかという問いに答えなくては、入信行為の説明にならない。」(前掲書、p.88-89)

 ここで櫻井氏はアイリーン・バーカー博士と同じく、同じように勧誘されても入信しない者がおり、個人が持つ特性によって人は異なる反応をするものであること十分に理解している。にもかかわらず、本書においてはあたかも全員が統一教会に一方的に心理操作された被害者のように描かれており、その人たちの個性や主体的な意思が統一教会の信仰を持つようになった原因であるという可能性は初めから排除されているのである。

 こうした「心理操作モデル」は、宗教社会学の世界では批判されており、むしろ回心する側の主体的な役割が強調されている。キース・A・ロバーツの『社会学的視点から見た宗教』は、アメリカの大学および大学院において宗教社会学の教科書として広く用いられている。この教科書の第五章「回心と献身:社会学的視点」は、宗教的回心の問題を取り扱っているが、その中の「実践主義者としての回心者」というタイトルのもと、以下のように述べられている。
「歴史的に、ほとんどの社会科学者は人間の行動のやや受動的なモデルを使って回心を説明してきた。回心とは、無意識の心理的プロセスや強制的な社会的緊張のゆえに個人に引き起こされる出来事であった(リチャードソン、1985)。確かに、“マインド・コントロール”の仮説はこの見方と矛盾しない。ロフランドその他によるプロセス・モデルは、いくぶんかこうした決定論からの脱皮を意味した。一連の出来事が働きかけ、それらの出来事の中で参加者はなんらかの選択の余地をもっており、何らかの決断をするものであると信じられている。しかし、幾人かの研究者はこれらのモデルでさえ回心者に対してあまりにも受動的な見方をしていると信じている。彼らは、これらのモデルでさえ回心を個人の外側にあるさまざまな社会的圧力の結果として描写していると感じるのである。

 幾人かの社会科学者が述べてきた回心に対する見解においては、個人は目的を持って選択を行い、回心を求める積極的な行為者としてとらえられている(ストラウス、1976, 1979;バルク、1980;バルクとテイラー、1976, 1977;リチャードソン、1985)。実践主義者の見解は、個人は人生の意味を求めており、彼らは自分たちのニーズを満たしてくれるであろうと信じるグループに意識的に参加する、ということを強調する。その信仰に公平な機会を与えるために、彼らはそのグループにおける役割と行動に自分自身を押し込むのである。

 この視点は、続いて、役割理論に焦点を当てる。人々は回心者の役割を果たしているうちに、ときどき役割の報酬を感じるようになる。彼らはグループに投入し、彼らはその役割をうまく果たしていることによる自己満足を得るようになり、そして彼らはそうした役割を正当化し説明している思想を信じるようになるのであろう。本質的に、新入会員は自分自身を回心させるのである。しかしながら、参加した者の中には報酬に価する役割を見出せなかったり、その信仰が彼らの意図するニーズに合致しないと思ったりする者がおり、彼らは脱退する。それでも他の者はしばらくの間は期待に適った役割を見出しているが、やがて役割のパートナーが変わったり組織が進化すると、その役割は満足できないものになる。こうした人々は、その時にグループから離れていく。

 この実践主義者の視点は、必ずしも後に論ずる所属グループ・モデルと矛盾するものではない。それは一つの矯正として働くに過ぎない。回心者は受動的参加者であり、彼らは自分たちのコントロールを超えた社会的圧力による無意識の「犠牲者」であると見ることは誤りである。新入会員は、彼ら自身の状況を決定する参加者である。ほとんどの社会学者は、人間を外的な刺激によって完全にコントロールされるロボットとしては見ていない。人間は自分の環境を形成するのを助ける積極的な行為者である。」(Keith A. Roberts, Religions in Sociological Perspective 2nd Editionより日本語訳、p.101-103)

 宗教社会学者である櫻井氏が、回心に関するこうした学問的業績を知らないはずはない。にもかかわらず彼は、むしろ「洗脳論」や「マインド・コントロール論」に近いような受動的なモデルで統一教会の回心を描き切った。なぜか? それはこの分析の部分が櫻井氏が裁判に提出した「意見書」と深く関わっており、そこでの主張と一貫性を持たせるためであると推察される。裁判の必要上、統一教会信者は哀れな「受動的犠牲者」でなければならないのである。櫻井氏が裁判のために宗教社会学の一般的見解を捻じ曲げ、また過去において自らが書いた主張とも矛盾した内容を本書で書いていることは、学者としての良心や貞操観念の放棄であると私は考える。

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