書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』141


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第141回目である。先回で櫻井義秀氏が執筆を担当した第Ⅰ部と第Ⅱ部に対する検証が終わり、今回から中西尋子氏が執筆を担当した第Ⅲ部に入ることになる。実は、櫻井氏と中西氏には共通点がある。それは初期の段階では統一教会に対する客観的で中立的な論文を書いていたにもかかわらず、それが統一教会をあまりにも肯定的に評価していると反対派から批判され、その圧力に屈服して批判的な論調に転向したという点である。

 既に紹介したように、櫻井氏は1996年に北海道大学の雑誌の中の『オウム真理教現象の記述を巡る一考察』という論文の中で、西田公昭氏の「マインド・コントロール理論」の問題点を次のように鋭く指摘していた。「騙されたと自らが語ることで、マインド・コントロールは意図せずに自らの自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。…自我を守るか、自我を超えたものを取るかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。…そのような覚悟を、信じるという行為の重みとして信仰者には自覚されるべきであろう」。

 要するに、「マインド・コントロール」とは責任転嫁の論理であることを櫻井氏は指摘したのである。しかしながら、後に彼は統一教会を反対する立場に転向する。櫻井氏が豹変した背景には、この論文が統一教会を相手取った民事訴訟である「青春を返せ」裁判の際に、被告側弁護団によって引用されたことがある。それが原因で、原告側弁護団から「あなたの論文が『統一教会』擁護に使われているが、それを承知で『マインド・コントロール論』の批判をされたのか」と糾弾されてしまったのである。さらに、元ジャーナリストの藤田庄市氏からは「統一教会の犠牲者たちをうしろから切りつける役割をあんたはやったんだよ」と忠告されたのである。これらの様子は岩波講座の『宗教への視座』という本の中に書いてある。

 櫻井氏は、自分の書いた「マインド・コントロール」批判の論文が、まさか統一教会を擁護するために使われるとは思っていなかったようで、彼のホームページの中に以下のような表現があった。「『マインド・コントロール』論争と裁判−『強制的説得』と『不法行為責任』をめぐって」というタイトルのもと、「2000年12月5日、札幌地裁の上記公判において、教会側証人として、『カルト』『マインド・コントロール』問題の専門家として魚谷俊輔氏が出廷した。…証言において、あろうことか、筆者の『マインド・コントロール論』批判の論文を引用されたが、主旨を取り違えていたように思われた。筆者の意に反して、筆者の1996年の論文は『統一教会』側が『マインド・コントロール論』を否定する際に、日本の研究者による証拠資料として提出された。だから私はこれと闘わなければならない」と述べている。

 結局、櫻井氏は最初は「マインド・コントロール論」に対して批判的だったものの、「青春を返せ」裁判の原告側弁護士による圧力に屈してしまい、統一教会を批判する代表的な学者になってしまったのである。本書『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』はその集大成と言える作品だが、その共同執筆者に選ばれた中西尋子氏も、最初は統一教会に対して好意的な人物だったにもかかわらず、同じようなパターンで豹変した人物である。

 中西氏は韓国で研究していたのだが、そこで偶然田舎にお嫁に行った祝福家庭の日本人女性に出会った。そして、彼女はその祝福家庭の婦人に好感を持ち、その後礼拝に参加したり、婦人にインタビューをしながら研究を続けていた。しかし、あるきっかけから彼女も櫻井氏と同じように統一教会に反対する立場に立つようになった。実はそのことは、米本和広氏の著書『われらの不快な隣人』の中に、以下のように書かれている。「宗教社会学者の中西尋子が、『宗教と社会』学会で、<『地上天国』建設のための結婚−ある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から>というテーマの研究発表を行なった。…その会合に出席にしていた『全国弁連』の東京と関西の弁護士が詰問した。『霊感商法をどう認識しているのか』『(日本の)統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか』。出席者によれば、『中西さんはボコボコにされた』という」。つまり、彼女は弁護士たちに徹底的に糾弾され、結局はその圧力に屈して、櫻井氏と一緒に本を書くことになったのである。このように、いまの日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、たとえその内容が客観的で中立的なものであったとしても、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられてしまうのである。

 中西氏のこうした事実関係を背景として、個々の内容の分析に入ることにする。「第8章 韓国社会と統一教会」の冒頭部分で彼女は以下のように書いている。
「第6章、7章は信仰をやめて統一教会を脱会した元信者が調査対象だったのに対し、第8章から10章は信仰を続ける現役信者が対象である。」(p.403)

 この部分は、本全体の客観性や公平性を担保するために中西氏の研究が位置づけられていることを物語っている。これまで再三述べてきたように、櫻井氏の研究は脱会した元信者の証言に依拠した研究であり、一宗教団体の信仰のあり方について研究しているにもかかわらず、現役信者に対する聞き取り調査を全く行っていない。これではいくらなんでもサンプリングが偏っているというそしりを免れないので、もともと全く別の研究をしていた中西氏を共同研究者として巻き込んで、「現役信者の証言も聞いていますよ」というアリバイを作るために、彼女の調査結果を利用したということだ。しかし、本書における現役信者と元信者を比較する彼女の記述は奇妙な論理になっている。
「脱会する信者がいる一方で、現役信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかが問題となる。」(p.403)

 この書き方には、「普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならない。」というニュアンスが込められている。普通の宗教団体に対しては、このような書き方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と書くのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかしここでは、辞めるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった表現になってしまっているのである。中西氏は続けて以下のように述べる。
「調査対象は祝福により韓国人の配偶者を得て韓国に暮らす日本人信者である。脱会信者と現役信者の対比ならば日本にいる現役信者を対象としてもいいのだが、おそらく日本で現役信者を調査しようとしても困難だったのではないかと推察される。問題視される教団だけに正攻法で調査ができたのかどうか、できたとしても逆にデータの信憑性が問われかねない。」(p.403)

 これは完全な後付けの説明であり、「おそらく」とか「ではないかと推察される」などといった自信のない表現からも分かるように、挑戦してみることさえしなかった事柄に対する勝手な想像にすぎない。中西氏自身が調査の経緯について説明しているように、彼女は最初から在韓の日本人統一教会信者を調査しようと思っていたわけではなく、家族意識と高齢者問題に関する国際比較研究のために韓国の農村を訪れていたときに、そこで偶然に統一教会の信仰を持つ日本人女性に出会い、そこで得た知見を論文で発表したに過ぎない。ましてや櫻井氏の研究には現役信者に対する調査が欠けていたために、それを補う目的で調査を開始したわけでもない。脱会信者と現役信者の比較という視点は、中西氏自身に動機があったのではなく、櫻井氏が中西氏の研究に目を付け、自分の研究の欠陥部分を補うのに好都合だということで利用されたにすぎないのである。したがって、第8章のこの冒頭の言葉は、中西氏自身による自己の研究の位置づけというよりは、櫻井氏が描いた本全体の構成の中における中西氏の調査部分の位置づけを、そのままなぞって表現したものとみることができる。

 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というように、統一教会について本当に知りたければ、教団の中に果敢に飛び込んで行かなければ何も分からないはずである。しかし、櫻井氏は統一教会と適切な距離を取るためにはそれができないという。実際には、教団と適切な距離を取ること自体が難しいのではない。学問的には適切な距離を取って調査研究を行ったとしても、それを世間一般や統一教会反対派から「適切な距離である」と評価してもらうことが、日本社会においては難しいのである。そのリスクを敢えて犯す勇気は、櫻井氏にはなかった。だからと言って中西氏にあったわけでもない。彼女には最初から統一教会を調査してやろうなどという動機はなかったからだ。しかし韓国で偶然出会ったために、彼女は統一教会の現役信者に関心をもって聞き取り調査を行った。それがバッシングを受けたことでショックを受けるのだが、その研究に目を付けた櫻井氏に利用され、結果的には統一教会を批判することを目的とした本書の共同執筆者となったのである。

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