書評:大学のカルト対策(6)<1.なぜカルトは問題なのか⑤>


櫻井義秀氏による第一部の最初の記事「1.なぜカルトは問題なのか」の五回目です。

今回がこの記事に関する解説の最後になります。櫻井氏は、この記事の最後の「四 大学の役割」の中で、「学問の感覚とカルトの感覚」の違いを以下のように説明しています。

「このような学問を教授し学問の土台となる研究を実践する大学において重要な感覚は、人間社会における経験や認識の複数性・相対性を認めるということではないでしょうか。誰かが正しくて残りの人はすべて誤っている、誰かが知的に優れており残りの人は劣っているといったことではなく、相互に知識や認識の不足・ズレを補い合いながらも、お互いを認識の主体として尊重する共存の作法というものが、学問の土台にあるはずです。  カルト的思考は学問の対極にあります。つまり、問うべきことは一つ、解決法も一つ。それを知っている人と知らない人がいるので、知っている人は知らない人に教えるべきだし、教えてわからない人は知的・道徳的に問題があるといった考え方の癖です。」(p.29-30)

これはむしろ、学問的発想と宗教的発想の違いという、歴史的な課題に近いと言えるでしょう。カトリックに代表されるように、伝統的な宗教は絶対的真理を主張し、批判的で分析的な学問を迫害してきた歴史がありました。地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けた「ガリレオ裁判」などは、宗教と学問の葛藤の古典的な事例と言えるでしょう。社会の世俗化が進み、宗教的な教義によって社会が支配されなくなった現代においては、こうした宗教と科学の対決が公的な次元で行われることは少なくなりました。それでも、キリスト教の世界では「聖書の霊感性」と「聖書の批評学的研究」の対決に代表されるように、宗教的発想と学問的発想の葛藤がなくなったわけではありません。福音派や根本主義者の立場からずれば、櫻井氏の主張する「複数性・相対性」といった学問の感覚は、宗教的真理に対する挑戦とみなされるでしょう。

現代社会の特徴は、こうした学問的発想と宗教的発想の違いを、「私事」として個人の選択に委ね、公的権力はその是非に干渉しない点にあります。いかなる個人といえども、完全に科学的・学問的発想で生きているわけではなく、それを超えた宗教的な問いや世界の解釈を持っています。日々の生活の局面でどちらを選択するかは、個々人が判断すれば良いのであって、大学のような公権力がそのどちらかの発想はダメだから取り締まるというような干渉を行えば、個人の自由を侵害する結果になります。「世界観の問題」に関しては公的権力はできるだけ干渉しないようにするというのが、民主主義の作法ではないでしょうか?  櫻井氏が「学問の作法」を強く主張し、その体現者を自負するのであれば、自らそれを実践するべきです。

すなわち、自分と「カルト信者」の経験や認識の複数性・相対性を認め、誰か(櫻井氏もしくは大学)が正しくて残りの人(カルト)はすべて誤っている、誰か(櫻井氏もしくは大学)が知的に優れており残りの人(カルト)は劣っているといった発想を捨てて、相互に知識や認識の不足・ズレ(すなわち、自分や大学とカルトの間のズレ)を補い合いながらも、お互いを認識の主体として尊重する共存の作法(すなわち、大学とカルトの共存を目指すということ)を実践して欲しいものです。  もし本当にこの「学問の作法」を櫻井氏が実践するならば、「カルト信者」と真摯な対話を繰り返すべきであり、一方的な取り締りや弾圧を正当化すべきではありません。そのようなことをすれば、大学がまさに「答えは一つであり、知っている大学が知らないカルト信者に教えなければならない」という、櫻井氏の批判する「カルト的思考」に陥ってしまうことになります。大学は、「反カルトのカルト化」というトラップにかかろうとしているのではないでしょうか?

さて、櫻井氏は「現代宗教を学ぶ」と題して、現代宗教を知るための講義を一般教養科目で開講することを提案しています。大学生が宗教について学ぶことは、一般的には良いことだと思いますので、アイデア自体は可であり、反対する理由はありません。しかし、その背後にある理由付けには同意することはできません。それは、高校までの公教育で宗教についてまったく学ばないことが、大学に入ってカルトの勧誘のワナにはまってしまう原因だ、という論理です。

この提案には、「そういう講義を大学で開講する際には、ぜひ私を講師に呼んでください」という営業の匂いがします。もしその講義の内容が、一般教養としての宗教に関する知識を教えるのではなく、「カルト対策講義」なら問題です。

櫻井氏は、日本の大学生は宗教に対してあまりにも無知なのでカルトにはまってしまうのだと言いたいようなのですが、果たしてこの分析は正しいのでしょうか。実はこれと全く矛盾する内容が、この本の第二部の質疑応答の部分に出てくるのです。それは、キリスト教系の学校の出身者がカルト視される教団に入る例が多いという事実です。そこでは櫻井氏自らが以下のように述べています。

「私がカルト問題に取り組むきっかけとなったのは、北星学園の短大で学生に教えていて、その短大を離れた後に、教え子が統一教会に入ったという連絡があり、どうしたらよいだろうという相談を受けたことです。私は社会学や倫理学という授業科目において宗教関連のことを教えていましたし、学生は必修科目としてキリスト教学を履修し、出席を取る礼拝や講話においてキリスト教の素養を持っていたはずなのですが、こうした学生がなぜ統一教会に入っていったのかと非常に気にかかったことがあります。・・・公立大学よりもミッション系の大学でカルトに入る学生は少なくないですね」(p.218-219)。

彼はその原因を宗教的な雰囲気にだけ馴染んで、知識教育が不足していたのではないかと分析していますが、キリスト教系の大学でしっかり学び、櫻井氏自身から薫陶を受けた学生が統一教会に入ったという事例があることを思えば、公立大学の教養課程の1講座くらいで予防効果があるかどうかは、はなはだ疑問です。

この質疑応答では、パスカル氏も「ミッション・スクールの授業でキリスト教や聖書を学んでいたのに、本当は理解しておらずにカルトに入るメンバーは多い。もっと本格的に教えないと『偽物』を見分けることはできない」(p.220-221の要旨)といった主張をしていますが、こうした事実からは「宗教について学んでいても『カルト』に入っている学生は多いので、予防にはならない」という結論しか出てこないように思います。それは、彼らの考え方の前提が間違っているからです。実際には、カルト視される団体に入る学生は、宗教に無知で世俗的な学生ではなく、宗教的な背景や素養のある学生や、宗教に関心のある学生が多いということです。

櫻井氏もパスカルも、カルトは「偽物」の宗教なので、「本物」の宗教をよく教えればそれに騙されることはないと言いたいようです。しかし、こうした彼らの主張は、事実によって反証されます。

まず、草創期に韓国の統一教会に入教した人々は、ほとんどがクリスチャンでした。彼らは「キリスト教の知識や素養を身に付けていた」というような次元ではなく、熱烈なキリスト教の信仰を持っていたのです。それでも、彼らは統一教会に来ました。既存のキリスト教と比較して、統一教会に「本物」を発見したからです。

日本の統一教会も、草創期の信者はクリスチャンだった者と立正佼成会の出身者に大別され、いずれも宗教的な背景を持った人々でした。その後もキリスト教を始め、宗教的背景を持つ人が多く統一教会に入信しています。したがって、宗教に対して無知であるがゆえに「カルト」に入るという彼らの論理は、事実によって反証され、破綻しているのです。

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