櫻井義秀氏による第二部の最初の記事「1.外来宗教とカルト問題」の二回目です。この記事の中で櫻井氏は「カルトとは何か」という最も重要な問いかけに対して、以下のような発言をしています。
「大学でカルトという言葉を使用する場合、学問的な用法というよりも実用的な意味で使用してもいいのではないかと考えております。学生が大学で教育を受けるにあたってさまざまな妨害活動をなすような団体を私たちはカルトと呼び、学生に注意喚起をなすということです。正体を隠した勧誘によって学生が誘い込まれる恐れや、学生の学費や生活費、および学習・余暇の時間が収奪されるような危険性がある団体には、『カルト』と読んで対応してよいし、現実的に名前を名乗らなかったり、ダミーの名前を使ったりすることからも、『カルト』と総称的な言い方をせざるを得ないのではないでしょうか。」(p.150-151)
この発言から見えてくるものはなんでしょうか? 櫻井氏が「学問的な用法というよりも」と言うとき、それは自らの専門分野が宗教社会学であり、学問的な「カルト」の用法に多義性、曖昧性、恣意性があることを認識しているために、「使えない」と判断して、あえて「学問的な用法」を避けている、ということにほかなりません。これは学者としての良心と真理探究心を放棄して、「カルトを取り締まる」という目的を先立てた、政治的な立場に自らを位置づけていることにほかならないのです。しかも、「恐れ」や「危険性」という、事実に基づかない漠然とした根拠による「性悪説」的な決めつけをしています。さらに、厳密な定義に基づかない「総称的な言い方」とは、要するにレッテルを貼ることにほかなりません。櫻井氏は、「はじめに」において、「カルトとは何か」といった疑問に「一つ一つ丁寧に答えていく」と約束していますが、その言葉とは裏腹に、結局は曖昧な言葉で問題を片付けているだけです。
櫻井氏は151ページに以下のような表を添付して、「カルト」を名指しで批判しています。
表1 覚えておいてよいカルト
櫻井氏による「カルト」の判別基準の最も重要な要素が「正体を隠した勧誘」です。しかし、ここでは顕正会は名前を名乗って勧誘することを認めているのですが、「強引」という理由だけでカルトの仲間入りをさせられています。カルトであるかどうかの判断基準はけっこう曖昧なようです。
櫻井氏は、不適切な勧誘・布教活動が行われる理由として、「教勢拡大が団体の活動目標となっている」ために、手段を選ばない状態になっているのだと説明します。彼は、「正体を隠した勧誘」に関して以下のように述べています。
「熱心すぎる布教と正体を隠した勧誘では大きな差異があります。熱心すぎる布教は新宗教が拡大する際にはよくみられたことなのですが、騙してまで信者を増やす、あるいは詐欺的手法により教団の資産を増やすといったことまではやりません。正体を隠すという手法は、従来の宗教団体や信者が持っていた倫理観や規範意識を大いに逸脱したものです。・・・宗教とカルトをあえて分けるとすれば、一つは正体を隠すことへの倫理観の有無があるのではないでしょうか。」(p.152)
「カルト」という言葉の是非はさておき、正体隠しの勧誘に対する櫻井氏の主張は、倫理的に正しいことを言っていると思われます。これは逆を返せば、統一教会の信者がはじめから自らのアイデンティティを隠すことなく正々堂々と伝道すれば、「カルト」などと呼ばれる筋合いはないことを示しています。これは2009年の徳野会長によるコンプライアンスに関する指導以来、統一教会の一貫した指導方針となっていますので、それを信徒一人ひとりが実践すればよいのだということになります。
櫻井氏はまた、以下のような興味深い発言をしています。
「カルトや新宗教に限らず、既成宗教であったとしても、宗教が教勢を拡大することを自己目的化し、そのためにさまざまな戦略をとるときに、カルト的な勧誘手法や信者を組織のコマに使うような組織運営が生まれてくるのではないかと考えております。残念ながら、カルト団体に取り込まれてしまった若者たちは、宗教の根幹をなすはずの信仰のあり方、信教の自由という価値観を十分検討することなしに、組織の方針に従って信者を増やすことに邁進するのです。」(p.153)
彼の主張は、外から言われれば良い気持ちはしないものの、私たちが信仰者として内省し、自戒する上では意味のある言葉であると思われます。もとより、伝道の目的は教勢の拡大ではありません。魂の救済のためであり、自分自身の愛の成長のためであるはずです。熱心に活動するあまり、その本質を見失うことのないように、私たちは信仰者として自戒すべきではないでしょうか。
同時にこれは、「カルト」視される団体にのみ当てはまる問題ではなく、既成宗教にも起こりうることであると言っておりますので、「カルト」とそうでない宗教団体を固定的に分けることはできないという結論になります。より本質的な問題は、宗教団体の倫理や文化にあるのであり、どの団体が「カルト」で、どの団体がそうでないという「レッテル張り」をすることにあるのではありません。
櫻井氏によるこの記事の大きなテーマの一つが「外来宗教」ですが、「五.ニューカマー宗教の時代」という節の中で彼は以下のような興味深い発言をしています。
「日本のキリスト教がなかなか教勢を伸ばせない中、韓国から多くのキリスト教会が入ってきて、日本の中で教勢を拡大しています。(ex.ヨハン教会)」(p.159)
「新たなカルトが多数出てきたということではなく、多くの新しい外来宗教が日本に入ってきており、宗教的な多元性が増しているという現状です。私たちにとって未知の宗教や日本出自のものではない宗教文化をすべてカルト的なものと考えてしまうと、新しい宗教団体の活動を知れば知るほどカルトが増えてきたと考えがちになります。しかし、これでは宗教多元状況への対応を多文化主義的観点からなすことはできなくなります。」(p.159-160)
この部分では、珍しく(?)櫻井氏の主張は私とぴったりと一致します。人は未知なるものや外来のものに対する「文化的な違和感」から、それらを排斥したり迫害したりする傾向が強いのです。「カルト」視された団体に対する迫害も、多くはこうした不寛容な姿勢が背景にあるのではないでしょうか? 外国からの移民や労働者が増加する昨今、カトリック、イスラム教、ヒンドゥー教など、多様な宗教的背景を持った人々と共存するための文化的寛容性が日本人に求められており、これは「多文化共生社会の形成」という政府の方針にもなっています。統一教会も外来の宗教ですが、日本社会が統一教会に対して拒絶反応を示す一つの理由は、韓国発祥の宗教であることに対する偏見があるのではないでしょうか? 自らの「カルト」批判が、はたしてそのようなethnocentrism(自民族中心主義)を動機としたものでないかどうか、大学や「カルト」を批判する人々は、もう一度自問してみる必要があるのではないでしょうか?