『生書』を読む35


第八章 開元の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第35回目である。第31回から「第八章 開元」の内容に入った。本章では山口日ケン(ケンは田に犬)という法華経の行者とのやりとりに長い紙幅が費やされており、その中で大神様の教えが説かれている。前回は天照皇大神宮教の在家信仰と職業的宗教家の禁止、そして「無我」の教えについて分析した。今回は大神様が過去の宗教的な経文や文献を否定し、それらを焼いてしまう部分について考察したい。

 山口氏と中山氏は、大神様との勝負に敗れ、大神様に弟子入りすることになるのであるが、彼らが大神様の説法を聞いていると、これまで自分たちが研究してきたことをもっと生き生きと語っているように聞こえてきた。
「また、かつて古事記や、経文、聖書を研究したことのある彼らは、それらの教典の一つ一つが思い当たるのである。そして二人が驚いたことには、大神様の説法はそれらの本を読むのとは違って、生きて胸の中に飛び込んでくるような気がすることであった。彼らが今までやってきたと思った宗教的行は、観念の遊戯であり、己の良心をあざむき、自己陶酔にすぎず、世の末のあらゆる宗教は死にものであることに気づくと同時に、今絶対神が、大神様としてこの下界(現象界)にまで現れられ、世の末を変じて世の初めとなす、神の国建設の大聖業を開始せられているということを悟るのであった。」(p.232)

 この記述は、宗教的なテキストを通して得られる宗教体験と、直接的な宗教体験の違いということについて考えさせる。長い歴史を持つ宗教であればあるほど、その経典に記されている物語が書かれた時代と、それを読む者との間に時間的・文化的な距離が生じることになる。釈迦やイエスに出会った人々は、文献を通してではなく、彼らとの直接的な出会いを通して宗教的な体験をした。それを書き留めたものが聖書であり仏典であるわけだが、長い時間が経ったり他の言語に翻訳されたりした場合には、文献の意味するところが伝わりづらくなったり、オリジナルの意味とはかけ離れた自分勝手な解釈になりやすくなる。いわば時代や言語・文化の壁を隔てて間接的な出会いをしているといってよいだろう。こうした経験を持つ者が、自分と同時代に生きるカリスマ的な教祖に出会ったとするならば、それは目の前の壁が一気に取り払われたような、衝撃的な体験になるであろう。山口氏はまさにそのような体験をしたのである。

 そのような直接的な宗教体験をした者にとっては、もはや文献を通した間接的な体験は色褪せて見えるようになってしまい、その使命は終わったしまったと考えるのも無理はない。事実、中山はこれまで自分の信仰生活を導いてきた文献を大神様と出会ったことをもって放棄し、惜しげもなく捧げてしまう決意をしたのである。
「いよいよ説法が始まると、山口は一つの風呂敷包みを大神様の前に差し出して、『今日より、過去のいっさいを捨てきって、生まれ変わらせていただきます。大神様という宇宙絶対神が天降られ、直接ご指導くださる御代となった以上、もはや経文も本も護符も、すべて無用の物となったことが、この二日間のご説法を聞き、よくわかりました。この中の物は、私が過去十年余り一日も欠かすことなく上げた法華経の経文や、肌身離さず持っていた護符や、日蓮上人の御遺文であります。大神様にどのようになりと御処分願います。』と願い出た。」(p.235)

 こうした態度を大神様は大変気に入られ、以下のように述べている。
「二千六百五年のあらゆる経文も、本も、今日の日からはいらぬのよ。三千年に一度咲く、優曇華の花咲き下がり、天なる神が天降り、おサヨの口を通して、道教えする時にゃ、何にもいらぬ時が来た。経文、本もいりません。あらゆる偶像、祭壇もいりません。ただおサヨの口一本鎗の世ができる――。」(p.236-7)

 そして『生書』はこのことの意味を以下のように解説している。
「いよいよ過去いっさいの経文や偶像を廃止し清算する時が来たのである。」(p.237)
「仏教も、キリスト教も、また世の末のすべての宗教は、その本来の生命を失い、根幹を忘れ、枝葉末節にとらわれて千岐に分かれ、観念や哲学の死にもの宗教となり、人類は神や仏を忘れこれに背き、自らの知恵に幻惑されて迷い子となり、まさに自らの墓穴を掘りつつある。その時、神は再び救のみ手を、直々に差し伸べられたのである。」(p.238)

 こうして大神様は、山口氏が大切にしてきた法華経の経文や、護符や、日蓮上人の御遺文などを焼いてしまわれたのである。それは、これらの過去の宗教的経典やシンボルがその使命を終えて、もはや無用のものとなったことを意味している。それを悟った山口氏は霊的に開かれた「準備された人物」であり、それを悟れずに古い経文にしがみついている宗教者たちは審判の対象となるのである。

 実はこうした世界観は『原理講論』の中にも登場する。『原理講論』の終末論では、世の終わりが来るときには「日と月が光を失い星が空から落ちる」(マタイ24:29)と語られたイエスのみ言葉を解釈するうえで、それは文字通りに天変地異が起こるという意味ではなく、日と月は父母を意味し、イエスと聖霊を象徴したものであると解いたうえで、終末が来るとイエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うようになると解釈しているのである。なぜ新約のみ言が光を失うようになるのかと言えば、ちょうどイエスと聖霊が来られることによって、旧約のみ言がその使命を終えて光を失うようになったのと同様に、イエスが再臨されて、新しい真理(成約のみ言)を語られるようになるときには、初臨のときに下さった新約のみ言はその光を失うようになるということである。ここにおいて、「み言がその光を失う」というのは、新しい時代がくることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさったことを意味するという。

 そして、こうした時代の転換期には過去の宗教的文献やシンボルに執着している人は、時代の変化に対応できず、神の摂理に逆行する者となる可能性があり、終末期である現代に生きる我々も同様の過ちを犯す危険があると『原理講論』は警告している。
「このような新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる。したがって、この摂理は古い時代の因習に陥っている人々には、なかなか納得ができないのである。新しい時代の摂理を担当してきた聖賢たちが、みなその時代の犠牲者となってしまった理由は、まさしくここにあったのである。その実例として、いまだ旧約時代の終末期であったときに、新約時代の新しい摂理の中心として来られたイエスは、旧約律法主義者たちにとっては、理解することのできない異端者の姿をもって現れたので、ついにユダヤ人たちの排斥を受けて殺害されてしまったのである。イエスが、『新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである』(ルカ五・38)と言われた理由もまたここにあったのである。」(終末論第五節(二))
「終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。」(終末論第五節(二))

 『原理講論』は、現代のキリスト教徒たちがこのような姿勢を持つことが出来ず、因習的な観念にとらわれて新しい真理を受け入れることができない状況を、以下のような言葉で嘆いている。
「第一は、今日のキリスト教はユダヤ教と同じく、教権と教会儀式にとらわれている一方、その内容が腐敗しているという点である。イエス当時の祭司長と律法学者たちを中心とした指導者層は、形式的な律法主義の奴隷となり、その心霊生活が腐敗していたので、良心的な信徒であればあるほど、心霊の渇きを満たすために異端者として排斥されていたイエスに、蜂の群れのように従っていったのであった。このように、今日のキリスト教においても、教職者をはじめとする指導層が、その教権と教会儀式の奴隷となり、心霊的に日に日に暗がりの中に落ちこんでいくのである。ゆえに、篤実なキリスト教信徒たちは、このような環境を離れて、信仰の内的な光明を体恤しようとして、真なる道と新しい指導者を尋ねて、野山をさまよっているのが実態である。」(再臨論第四節)

 この記述は、文鮮明師を中心とする初期の統一教会が、既成のキリスト教会から異端視され迫害された事実を背景としている。新しい時代が来たからには、救世主を迎えるために書かれた過去の経典に執着するのではなく、その経典が予言した救世主そのものと出会わなければならないのに、多くの人々はそれを悟ることができなかったのである。そのことは、新約聖書の中でイエスも語っている。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5:39)
「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。」(ヨハネによる福音書5:46)
 

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