『生書』を読む34


第八章 開元の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第34回目である。第31回から「第八章 開元」の内容に入った。本章では山口日ケン(ケンは田に犬)という法華経の行者とのやりとりに長い紙幅が費やされており、その中で大神様の教えが説かれている。前回は典型的なカリスマ的指導者である大神様が、既存の宗教指導者、教義や教学、ならびに宗教的シンボルを一刀両断に切って見せる様子を紹介し、そのことの意味を解説した。今回はその続きであり、大神様の思想の特徴をその言葉から分析してみたいと思う。

 『生書』には、神の道と人の道は元来一つであり、人間の道を外れた宗教的修行というものはあり得ないことが説かれている。これは基本的には出家、隠遁、職業的宗教者といったものを否定し、在家信仰こそが神の道であるという思想である。
「役座が肉体持ったまま、今まで踏んだその道を説いておるのが神教じゃ。人間としての行であるなれば、人間の道を外れて行はない。人間の道が当たり前に踏めない者を、天の神様なんで娶って使やせぬ。

 蛆の世界じゃ、親兄弟に別れ為し、家庭を捨て、財産を放り、山に籠もり滝に打たれ、座禅、断食したとて何にもならんだが、妻子を連れ、妻なき者には妻を与え、夫なき者には夫を与え、家庭持ちまんま、現職そのまま、己が真人間になって真人間の道を踏み、一人の真人間つくるにも、己が人間の道踏めない者は、人に説く資格がない。賽銭お初穂取った上、氏子や檀家を食いものにするような乞食の坊主、神主の飯の食い納めさせる時が来た。」(p.226)

 天照皇大神宮教の組織としての最大の特徴は、職業的宗教家の禁止であろう。宗教を生業(なりわい)とすることは、天照皇大神宮教の教義に反するのである。人間の魂にとって階級や肩書は関係ないという信念に基づき、教祖も幹部も信者も、それぞれ生業を持っていて、信仰によって生活している者はいない。(ただし、本部の事務職の専従はあるという)通常の宗教団体であれば、僧侶や神官や牧師になろうと思えば専門的な教育を受け、教義に関する知識を蓄積したうえで、聖職者としての肩書を取得する場合が多い。しかし、天照皇大神宮教では「知識や頭脳で悟ろうとする時代は終わった」と教えており、プロの宗教家になるための経典の勉強や、座禅・断食といった特別な修行さえも必要ないと言っているのである。

 長い歴史を持つ伝統宗教は、俗世間を汚れた世界であると考えており、俗世に染まってしまっては霊性が開かれないので、宗教的な覚醒を目指す者は家庭を捨て、世俗の職業を捨て、山に籠もったり修道院に入ったりして精神を清めることを重要視する傾向があった。そして俗世間から自己を隔離したうえで、経典を読んだり祈祷や修行を行うことによって神に近づこうとしたのである。

 こうした宗教的修行を否定する天照皇大神宮教の教えは、統一原理の立場からはどのように評価されるであろうか? 結論から言えば、創造原理的な視点からは正解であるが、堕落論や復帰原理の立場からすれば行き過ぎということになる。もし人間が堕落せずに完成していたとすれば、その人は神と一体となり、神の心情を体恤し、神の宮となるのであるから、その人の地上における生活そのものが神のみ旨通りの生活となるので、世俗生活と信仰生活との間に区別はなく、ことさらに世俗を離れて信仰生活に専念する必要はなかった。さらに、神の愛は家庭の中において子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛という「四大愛」となって現れ、家庭の中でその愛を体験することを通して神の愛を実感するようになっていたので、まさに家庭は「愛の学校」であって、わざわざ家庭を離れて神を求めることには何の意味もないといえる。創造本然の世界においては人の道と神の道は完全に一致しており、大神様の教えとはなんの齟齬もない。

 しかし、人間始祖アダムとエバが堕落することにより、人間の肉身はサタンの前線基地となり、人間の性には罪が侵入してしまった。そして家庭は神の愛を実感する場というよりは、人間の罪と愛憎が渦巻くような修羅場となってしまったのである。サタンは血統の中に入り込み、血統を通じて人間を支配してきた。その血統を繋げるものが性行為であり、夫婦生活であるため、ある意味では家庭はサタンの温床となってしまったのである。したがって、堕落した人間は家庭生活そのもので神を実感することはできなくなってしまったため、神を求める人々は出家して修行の道を歩むようになったのである。

 『原理講論』は、「罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきた」(堕落論)と述べているが、古来より高等宗教における禁欲生活の中心は性欲の否定であった。これは同時に家庭生活の否定を意味し、仏教の修行僧、カトリックの司祭や修道僧、尼僧などはみな生涯独身を貫いて神を求めてきたのである。とりわけ堕落した罪悪世界においては、世俗生活は肉身の欲望を刺激する誘惑に満ちており、肉身が人間に罪を犯させるサタンの前線基地となっていたため、あえてこうした環境を避け、断食や水行などを通して肉身の欲望を否定し、祈りに集中することによって神を求めてきたのである。こうした宗教者の努力は、復帰の路程においては避けて通ることのできない蕩減条件だったのであり、その意義を否定すべきではない。またこうした道は万民が行くことのできる道ではなく、一部の宗教的エリートのみが行くことのできる道であった。彼らが人類を代表して神を求めることに専念し、宗教的高みを求めて来たがゆえに、宗教団体の世俗化を防ぎ、一定の基準を保ってきたのだということは正当に評価されなければならない。

 続いて大神様は、神行の本質は「無我」であると説いた。無我というのは、自我がなくった境地のことである。経文や本によっては神に至れないのは、そこに自我があるからであり、それを捨てなければ神の国に行くことはできないというのである。
「経文、本で指導する蛆の時代は、早済んだ。しいら頭をひねり立て、無我を自我で求めても無我の世界に出られない。早く心の裸になった上、無我のばかになりなされ。神、神行というものは、無我だよ、無我だよ、自我じゃ行けない神の国――。」(p.227)
「天使になるのには、自我があっては使われぬ。あらゆる宗教はみな、無我を目標にしながら、無我を自我で求めちょる。畑ではまぐり掘ってもない。無我とは己の我を捨てて、正しき神のなさるがままになることじゃ。信じ仰ぐ時代は早済んだ。しんこうとは神に行くと書け、己の魂の掃除しては神に行くのが神行じゃ。」(p.229)
「今日から七日間、しいら頭をかなぐり捨てて、無我のばかになる行をせい。神様は、わしみたいな生まれついてのばかが一番好きなのじゃ。ばかになれ、ばかになれ、あほうばかになるな、無我のばかになれ。」(p.229)
「無我になるのには、まずわしの言うことを『はい。』と素直に聞くことじゃ。たとい東が西と言われても、西が東と言われても、白いが黒いと言われても、黒いが白いと言われても、ただ『はい、はい。』でついて来る者だけが、救われるのじゃ。」(p.230)

 こうした無我の境地は、古来より宗教が求めてきたものであり、とりわけ煩悩や執着を捨てて何ものにもこだわらない心の状態を目指した仏教の理想である「涅槃寂静」の境地に近いと言えるであろう。禅宗において座禅を組むのも、瞑想を通してこうした無我の境地に到達するためであった。キリスト教にいても、イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:03)と述べている。知識や経験は天国に入る上で必要なものではなく、逆に妨げになることもあることをイエスは教えた。旧約聖書の文字を一生懸命に研究していたパリサイ人や律法学者よりも、打ち砕かれた魂を持つ貧しい人々の方が先に天国に入ると言われたのも、より「自我」の少ない人の方がその心に神を迎え入れることができるのだと言いたかったのであろう。

 宗教的修行の道を行く者は、ともすれば自分自身の努力に対して誇りを持ち、自分が他の者よりも熱心に神を求め、霊的に高く清い所にいるという傲慢な思いになり、罪びとを見下すようになりがちである。そうした偽善をイエス・キリストも大神様も批判したのである。家庭連合においては、堕落人間が神に近づく道は「自己否定」であると教えている。それは堕落の根本原因が自己中心的な思いであり、神を思う以上に自我を優先したことにあるからである。大神様とイエスの教え、そして家庭連合の信仰は、本質的なところでは一致していると言えるであろう。

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