書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』187


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第187回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏によれば、韓国で暮らす日本人女性信者たちの結婚生活を下支えしている統一教会の教えは、①地上天国の実現と、②罪の清算であるという。前回は①の「地上天国実現のための家庭生活」という側面を分析したので、今回は②の「罪の清算としての生活」に関する記述を扱うことにする。

 中川氏は495-6ページにかけて統一教会の来世観について『原理講論』の記述に基づいて解説している。その中には堕落論に基づく罪の清算に関する記述も含まれており、肉身生活を通して罪の清算がなされることや、「蕩減」の概念が説明されている。さらに、統一原理における原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪の概念が説明される。ここまでの説明は原理講論の記述に基づくものであるため、概ね正確な記述となっている。

 中西氏は、「このうち原罪は祝福を受けることによって清算される。残りの三つ、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は善行の積み重ねによって清算しなければならない。日本人女性信者達の韓国での生活はこの三つの罪の清算のためにある。」(p.497)と説明したうえで、彼女たちが韓国における生活の苦労を罪の清算として捉えていることを紹介している。例えば以下のような語りである。
「(韓国に)嫁に来るのは、恨みを解くため。嫁に行って、いい嫁になって、日本の嫁はいい嫁だ、日本人はいい人だというようになっていく」(一九七八年生まれ、四億双・二次)
「(家事が下手、料理が下手など口うるさい夫に文句を言われ)むかつくが、日本が犯してきた罪、先祖が韓国人に言ってきたのかなーと、罪滅ぼしで来ているんだろうな、と思って我慢している」(一九七二年生まれ、四〇〇〇万双)(p.497)

 統一教会の教化プログラムでは、日本が韓国に対してなした36年間の植民地支配のことが語られ、その蛮行に対する償いとして、日本人女性が韓国に嫁いできて韓国人の夫やその家族に尽くすことが求められており、したがって結婚生活における苦労は贖罪のためであるという意義付けがなされているというのである。さらに贖罪の範囲は文禄慶長の役にまでさかのぼって理解されていることが紹介される。この辺まではインタビューに基づく日本人女性信者の「主観的理解」の解説にとどまる内容なのだが、そこから中西氏は突如としてこうした宗教的世界観に対する自分自身の論評を開始するのである。これは客観的な立ち位置を守るべき宗教社会学者としては逸脱行為である。
「朝鮮出兵も植民地支配も事実であり、日本の過ちだったことは認めるが、日本人女性が韓国人男性に嫁いで夫や夫の家族に尽くさないと罪は清算されないという論理はいかがなものか。キリスト教なら罪人は赦される、イエスは私達の罪を贖ってくださったと考える。統一教会において文鮮明は再臨のイエスであって真の父とされるが、贖い主とはなっていない。原罪は文鮮明の司る祝福によって清算されるが、残りの罪は全て信者自らが背負って自分で清算していかなければならないことになる。」(p.498)

 この記述は、本来ならば価値中立的な立場で記述すべき宗教の世界観に対して、私的な価値判断を持ち込んでいるものであり、しかも中西氏の専門分野である社会学的なテーマではなく、神学的なテーマに関することである。この点に関しては中西氏は専門外の問題に素人として発言していることになり、学者としての良心を疑わざるを得ない。

 確かに統一原理には「遺伝罪」という概念があり、先祖が犯した罪が子孫に影響を与えるという教えがある。しかしこれは世界の諸宗教の経典の中にみられる、一つの普遍的な観念である。また、日本の新宗教の中には「先祖の因縁」を説くものが多い。具体的には霊友会、大本教、真如苑、解脱会、天照皇大神宮教、世界真光文明教団、阿含宗、GLAなどを挙げることができるであろう。これらの教団は多くの場合、宇宙を目に見えるこの世界すなわち現界と、目に見えない神や霊の世界すなわち霊界の二重構造からなると考え、それら二つの世界の間には密接な交流影響関係があるとしている。すなわち現界で生起するさまざまな事象は、実はしばしば目に見えない霊界にその原因があるのであり、その働きは「守護霊」や「守護神」などによる加護の働きだけにはとどまらず、「悪霊」や「怨霊」などによって悪影響が及ぼされることもあるととらえられている。むしろ実際に霊界の影響がクローズ・アップされるのは、苦難や不幸の原因について説明するときの方が多いくらいである。

 統一教会においても同様に、身の周りに起こる事故や病気などの苦難を霊障、すなわち先祖の罪などの霊的な原因によって引き起こされる災いであるととらえたり、人間関係の軋轢や家庭の問題を先祖の罪の影響ととらえたりすることがある。そして「蕩減」とは先祖の因縁を清算することであり、自分自身が苦難を乗り越えることを通して先祖も救われると考えられることもある。さらに、罪の清算が国や民族の壁を超えるときには、「遺伝罪」というよりも「連帯罪」の清算として意識されるようになるのである。韓日家庭における夫婦の葛藤や嫁姑の葛藤などは、こうした脈絡の中で理解され、信仰を動機として乗り越えようとする信者がいることは事実であろう。

 こうした罪に対する理解は、自分の身の回りに起きる不幸や災難をどのようにとらえ乗り越えていくかに関する極めて宗教的で内面的な性格のものであり、その信仰を共有しない第三者が「いかがなものか」というような評論をするのは、極めて無礼で不謹慎な行為である。それを言い出せば、あらゆる宗教における罪や贖罪の概念に対して同じことが可能になってしまう。これは宗教的な世界観に対して世俗的な価値観を押し付けているにすぎないのだが、中西氏と同様に多くの場合、伝統的で社会的に受け入れられている宗教に対してはこうした態度はとらないにもかかわらず、非伝統的で社会的評価の低い宗教に対しては平気でやってのけるというダブルスタンダードを犯してしまうのである。

 また、イエスは全ての罪を赦してくれる贖い主であるのに対して、文鮮明師は原罪の清算しか行わず、残りの罪は信徒の自己責任で清算しなければならないというような比較をなし、あたかも統一教会よりもキリスト教の方が恩寵が大きいかのような似非神学を中西氏が展開している点も、専門外の問題に対する素人発言であるというそしりを免れない。

 そもそも一般的なキリスト教神学には原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪といったようなシステマティックな罪の分類概念がない。したがって、イエス・キリストの十字架の恩寵によってどこまでの罪が許されるのかということは、キリスト教神学と統一原理を詳細に比較したうえで論じなければならない極めて神学的なテーマである。それを中西氏はさしたる知識もなく簡単に片づけてしまっている。

 またこの問題は、救いにおける「他力」と「自力」の問題と深くかかわっている。キリスト教は基本的に他力型の宗教であり、人間の努力によらず、神の恩寵によって救われることが強調される。したがって、人間の犯したあらゆる罪を償うためにイエスが十字架の道を行かれたので、それを信じて受け入れるだけですべての罪が赦されると考える傾向が強いのである。それに対して統一原理は人間の責任分担を主張し、キリスト教の中にあっては自力の要素を強調する傾向の強い宗教である。こうした神学の違いは、キリスト教と統一教会の個性というべきものであり、価値中立的な宗教学者が優劣をつけるべき問題ではないのである。専門知識もなくこうした問題に軽率な判断を下す中西氏の態度は批判されてしかるべきである。

 中西氏が持ち上げる「贖い主」としてのイエスの愛も、捉え方を間違えれば一種のモラルハザードに陥る危険性がある。それは「保険によって事故が補償される」という考えが醸成されることにより、加入者の注意義務が散漫になり、かえって事故の発生確率が高まるのと同じように、「どんな罪を犯してもイエスの十字架の贖罪によって赦される」という考えが醸成されることにより、罪を回避しようとするクリスチャンの意識が薄れ、かえって道徳的に好ましくない生活を送るようになる危険のことである。

 ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは、このような恩寵の理解を「安価な恵み(cheap grace)」と呼んで批判し、逆に「高価な恵み」とはわれわれをキリストに従う者へと造り変える恵みであると説いた。韓国に嫁いで苦労の多い生活を送ることをあえて選択した統一教会の日本人女性信徒たちは、一方的な神の恩寵によって罪を赦してもらおうとしたのではなく、メシヤに従って自ら贖罪の先頭に立って歩もうとした点において、ボンフェッファーの言う「高価な恵み」を受け取ろうとした者たちであったと言えるのではないだろうか。

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