書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』85


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第85回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、実践トレーニングにおける伝道実習の分析の一環として、「14 信仰強化のメカニズム」(p.256-259)について論じている。トレーニングの受講生たちは街頭で伝道する中で、奇異の視線で見られたり、無視されたり、非難や嘲笑を浴びることによって、自分の全人格や人生そのものを否定されたような屈辱感を感じるという。彼らの声掛けで立ち止まる人は少なく、街頭での伝道活動は非効率的であるにもかかわらず、統一教会が30~40年にもわたって街頭伝道を続けてきたのは、こうした実践活動を「信仰強化のメカニズム」として位置付けているからであると櫻井氏は主張する。すなわち、「自尊心を剥ぎ取るような状況に受講生を追い込むことで、彼らの自己認知や世界観を大いに揺さぶる」(p.258)ことにより、意図的に心理操作や人格の変革を行おうとしているのだという。

 しかし、統一教会が「認知的不協和の意図的・効果的な利用」(p.258)をしているというのは単なる言いがかりに過ぎない。なぜなら、統一教会内ではそのような心理学的概念は共有されていないし、伝道活動を心理操作の方法として認識しているという事実もないからである。ある宗教活動がどのような意義を持っているかは、あくまでもその団体の内部においてどのように理解されているかに沿って、内在的に理解するのが正道と言える。そして、伝道実践の中で受講生たちが感じることや教えられることは、伝道的な宗教の世界観を背景として見たときに初めてその意味が明らかになるのである。

 道端で見知らぬ人に声をかけたときに無視されたり嘲笑されたりすることは、歴史的に宗教が受けてきた迫害や弾圧に比べるならば、大したことではない。それは生命や財産に対する実害を及ぼすものではなく、心が傷付くという程度のものである。しかし、伝道されたばかりの実践トレーニングの受講生にとっては、これまでの人生において体験したことのないような「否定」の体験であるかも知れない。そうしたときに、先輩の信者たちがそれを神、メシヤ、そして統一教会の先輩たちが歩んできた「苦難」や「迫害」の路程を追体験し、その「心情を復帰」するための機会であると諭すことはあるだろう。受講生たちはこうした小さな「苦難」や「迫害」を乗り越えることによって成長し、やがてより大きなそれらに立ち向かうことができるだけの信仰を培っていくのである。このとき、世俗の世界は自分たちに試練を与える敵対的な存在として認識されるが、宗教的真理が世俗社会から受け入れられず、神の使者や預言者が迫害されるという観念は数多くの宗教の中に見出すことができ、統一教会に限ったことではない。そしてそれを一番実感できるのが、人を伝道しようとして否定されるときなのである。

 自分たちの集団を神聖なものであると見て、現実世界を「悪の支配する世界」として敵視する宗教は多数存在する。キリスト教の中でも福音派や根本主義に属する教団は、「この世」を罪悪世界と認識してそれに染まらないよう信徒たちに呼びかけ、教会を神の道徳を守る最後の砦として位置付けている。このように「この世」が神の民を憎み迫害するという思想は、以下に示すように、聖書にその根拠があり、「この世」は真理を悟らずに、それを憎み迫害するものとして描写されている。
「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(テモテⅡ3:12)
「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。」(ヨハネ3:13)
「(イエスの言葉)もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:18)
「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ17:24-25)
「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」(ルカ11:49)

 さらに聖書は、この世が信徒たちを迫害するのは、この世の知恵に溺れ、神の知恵を悟れずにいるからであるとしている。
「知者はどこにいるのか。学者はどこにいるのか。この世の論者はどこにいるのか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。」(コリントⅠ1:20-21)
「この知恵は、この世の者たちの知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。…この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。」(コリントⅠ2:6-8)

 このように、聖書における「この世」の概念は、神の意思に従わない邪悪な世界として表現されており、キリストに従う信徒たちには、この世と妥協せず、交わらず、染まらないように勧告がなされている。同様に現世を否定する観念は仏教やイスラム教などの世界宗教にも見出すことができ、かなり広範に見られる傾向であるといえる。また、善なる者が悪なる世界から迫害されるというテーマは、キリスト教に限らず、仏教にも見出すことができる。仏教では迫害のことを「法難(ほうなん)」と呼ぶが、特に日蓮(1222~1282)においては、「法難」によって逆に自らの信仰の正しさが証明されるという思想が強調されている。彼は権威筋から迫害されることにより、何回も死にそうになるが、多くの法難に遭えば遭うほど、この道こそ正しい道であると確信していった。彼は、自分の受けている法難も、法華経の中で予言されていると解釈し、自分こそが末法の世に現れる法華経の行者、上行菩薩の生まれ変わりだと確信するようになった。

 それではこうした迫害や試練をどのように乗り越えていくことを聖書は教えているのであろうか? 第一に、イエス・キリストは迫害を受けることによって天国に近づくことを喜ぶように教えている。
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)

 使徒パウロは、迫害を受けるのは神が正しいことの証明なので誇りに思うべきであり、患難を喜ぶことによって良い方向へと向かうことを教えている。
「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。 これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。」(テサロニケⅡ1:4-5)
「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ロマ5:3-4)

 また使徒パウロは、迫害にあって自分が弱いと感じるときこそ、キリストの恵みが自分に現れるチャンスであると述べている。これは世俗社会から否定されることによって宗教的アイデンティティーが教化されることを物語っている。
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(コリントⅡ12:9-10)

 コリント人への第一の手紙1:31に「誇る者は主を誇れ」という言葉があるように、伝統的に信仰者たちは世俗的な地位、権力、知識、能力などを誇ることを戒めてきた。神はこの世においては愚かな者たちにあえて恵みを下さったのだから、自分自身を誇るのではなく、神の前に謙虚になって「主を誇る」ように指導されてきたのである。

 このように、「苦難」や「迫害」を信仰の糧としながら宗教的アイデンティティーを確立して生きた宗教の伝統を背景としてみるとき、櫻井氏の描写する統一教会の「信仰強化のメカニズム」は心理学的なテクニックというよりは、極めて伝統的な宗教の営みであると理解することができる。

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