『生書』を読む32


第八章 開元の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第32回目である。前回から「第八章 開元」の内容に入った。ここからは草創期の天照皇大神宮教がその基盤を固め、発展していく段階に入っていく。基盤固めの第一の要素は、大神様の息子である義人氏の戦地からの復員である。初めは神行に反発していた義人氏であったが、次第に神教に共感するようになり、受け入れていくようになる。これは天照皇大神宮教が後継体制を固めていく上で重要なステップとなった。本章において次に描かれている大きな出来事は、山口日ケン(ケンは田に犬)という法華経の行者と中山公威という政治運動家が大神様のもとを訪ねてきたことから始まる顛末である。この出来事は、既成の宗教伝統の中で救世主を求めてきた者が大神様に屈服することによって、大神様の権威を高めるという意味と、神教が田布施から日本の首都である東京へ広まっていく足がかりを作るという意味を持っている。

 この二人は、「宗教に依らなけば、もはや祖国、否世界は救われぬと信じていた。そこで宗教と政治を一体とする道義国家の建設を提唱して、正法同志会と新日本政治同盟というものをつくり、救国運動を起こしていた。」(p.219)とされる。実はこの考え方そのものは大神様の思想と矛盾するものではなく、目指すところはかなり近いものであると言える。しかし、大神様に出会うや否や、彼らはこっぴどく否定されることになる。それは宇宙絶対神につながることなくいくら自分なりに道を求めたとしても、その目的を成就することはできないと大神様から諭されたということなのである。

 彼ら二人は悪人として描かれているわけではなく、むしろ直接に神示を受けたり、霊能者を通じて指導を受けており、8月中旬に戦争が終わることや霊界に大変動が起こりつつあることを知っており、「救世主をさがし求めて血眼になっていた」(p.220)というのであるから、むしろ霊的に開かれた、高いレベルの修道生活を送ってきた人物として描かれていることが分かる。これは宗教的な物語に登場する典型的な「準備された人々」の役回りであると言えるだろう。

 こうした役回りの人物は、新約聖書においてイエス・キリストを証しするために登場する人物たちにその先例を見ることができる。ルカ伝の第2章には、イエスの誕生に先立って、羊飼いたちにメシヤの誕生が天使によって告げられたとの記述がある。また、『マタマタイ伝の第2章には、東方の三博士がイエス誕生の地であるベツレヘムまで訪ねてきて、母マリアと一緒にいた幼子イエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげたという記述がある。ルカ伝の第二章に登場するシメオンとアンナもまた、メシヤの誕生を霊的に察知して幼子を証しした人々であった。これらはみな、まだ何もしていない誕生のときからイエスをメシヤとして証しするが、その後に具体的に何かをすることなく物語が終わってしまうという意味で、予定論的な立場で登場する証し人の典型である。

 新約聖書の中で「準備されていた預言者」として登場するのは、洗礼ヨハネである。彼が懐胎されるとき、天使が現れて証した事実をユダヤ人たちはみな知っていたし(ルカ伝1:13)、彼が生まれたときの奇跡は、当時のユダヤ国中を大きく驚かせた(ルカ伝1:63-66)。そればかりでなく、荒野における彼の修道生活は、全ユダヤ人をして、彼こそがメシヤではあるまいかと思わせるほど、驚くべきものであった(ルカ伝3:15)。神がこのように偉大な洗礼ヨハネまでも遣わして、イエスをメシヤとして証しさせたのは、いうまでもなく、ユダヤ人をしてイエスを信じさせるためであった。洗礼ヨハネは、ただ単に予定論的にイエスのメシヤ性を証しすればよいのではなく、イエスと苦楽を共にし、イエスを支えて行かなければならない使命を持った人物であった。ところが、一度はイエスを証しした彼であったが、その後は別々の道を歩むようになる。彼は本来はイエスの第一弟子となるべく準備された人であったが、その使命を果たせずに失敗してしまったのである。

 イエスが十字架で亡くなった後に、「準備されていた人物」として登場したのはパウロであった。彼は初めはキリスト教徒たちを迫害する者であったが、ダマスカスに向かう道の途中でイエス・キリストと霊的に出会うことによって回心し、その後は異邦人たちに福音を宣べ伝える上で大きな役割を果たすようになるのである。

 このような前例からすれば、『生書』に登場する山口日ケン氏と中山公威氏は、洗礼ヨハネとパウロの使命を合わせ持ったような人物として描かれていることが分かるであろう。彼らは大神様に出会う前から救世主の到来を待ち望んでおり、大神様に出会うや否や、この方こそ救世主であると証すようになる。そして大神様に弟子入りし、東京に神教を宣べ伝える足がかりを作ったのである。こうした一連の流れが、『生書』の中では予定論的なトーンで描かれているのである。

 山口日ケン氏は「法華経の行者」とされていることから、もともとは日蓮宗の信仰を持っていたことが分かる。「身延の本山」という記述からも、身延山久遠寺(山梨県)を本山とする日蓮宗の下にあって修行を続けていたことが分かる。その彼が伊勢神宮に参って21日間の行をしている間に、以下のような神示があったという。
「日蓮上人が作成した本尊曼荼羅は、当座のものであって、絶対のものではなく、今度こそ次の世代の本尊が出現する時である。その本尊は天照大神で、日蓮はそれを地の中に伏せておいたのである。そして、その時代には本尊というような偶像はいらないのだ。…天照皇大神宮と思われる男神と女神の二柱の神が、お揃いで地に立っておられ、その周りに八百万の神が数知れず控えておられる。」(p.220-221)

 これは天照皇大神が「オリジナル」であり、本尊曼荼羅はその「仮の姿」であるという解釈であるから、神仏習合における本地垂迹説かあるいはその逆のパターンと類似しており、一つの宗教伝統が他の宗教伝統を飲み込もうとするときに典型的に見られる解釈の仕方である。つまり、既存の宗教における崇拝の対象は、来るべき本物の模型として存在し、本物が現れればそれに取って代わられるのだということだ。その意味では、ユダヤ教における幕屋や神殿にイエス・キリストが取って代わるという発想にも似ていると言える。これは既存の宗教伝統を完全否定するのではなく、新しいものとの連続性を持たせ、取り込んでしまおうとするときに用いられる解釈であると言ってよいであろう。

 山口日ケン氏が受けた神示の中には、天照皇大神宮教の教理そのものと思われる記述(天照皇大神宮と思われる男神と女神の二柱の神が、お揃いで地に立っておられ、その周りに八百万の神が数知れず控えておられる)が見受けられるが、大神様に出会う前の彼がここまで言語的に詳細な啓示を受けていたということは現実的にはあり得ない。批評学的に見れば、これは大神様の弟子になった後の彼らの理解を、あらかじめ神示によって告げられていたという物語に仕立てたということであろう。同様のことはキリスト教の『聖書』の中にも数多くみられる。

 『生書』には、山口氏と中山氏の両名がはじめて大神様の所を訪問したときの様子が描かれているが、それはひとことで言えば大神様の霊威に圧倒されて感服したということであった。『生書』の中には、大神様から悪口を言われることによって悔い改めに至ったり、徹底的にどやしつけられたり、叱られたりすることによって逆に魅了されるようになるというストーリーが多く出てくるが、この二人もそのパターンである。普通は悪口を言ったりどやしつけたりすれば嫌われるものだが、逆に魅了してしまうところが教祖のカリスマなのであろう。この二人に浴びせた言葉は以下のようなものであった。
「お前らは、お国大事を思っておると思うちょるじゃろうが、わしから見たら、利己、利己の大利己じゃ。お国を愛するなんていうのは、千里先の針の目処(穴)ほどもありゃあしない。」(p.223)

 愛国者を自負していた彼らからすれば屈辱的な言葉に違いない。しかし、大神様の威厳の前に彼らは何も言えなかった。そうこうしているうちに大神様は二人に憑いている霊を見抜いて、いきなりその因縁を切ってやったのである。言葉による教学論争も何もない。理屈抜き、問答無用の対応に、二人は完全に参ってしまったようである。

 二人は帰る道すがら「大変なことになった。とうとう自分たちがさがし求めていた救世主に巡り会った。それも一介の農家の主婦として現れておられる――。」と、驚きと感激に打たれて、当分口もきかなかった。(p.224)と『生書』は記している。そしてその翌日のやりとりを通して、彼らは完全に大神様の弟子になってしまうのである。

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