『生書』を読む31


第八章 開元

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第31回目である。今回から「第八章 開元」の内容に入る。

 そもそも「開元」とは何であろうか。天照皇大神宮教では、昭和21年1月1日に神の国開元を宣言し、その年を紀元元年としている。以来、教団ではこの紀元で年を表現している。一方、家庭連合では2013年1月13日を「基元節」として、その年を天一国元年としている。以来、教団では「天一国〇〇年」という新たな暦を用い、太陽暦ではなく太陰暦に基づく「天暦」を正式なカレンダーとして用いている。新しい時代の到来に際して「元号」に似たような新しい暦の出発を設定しているところも、天照皇大神宮教と家庭連合の共通点である。

 しかしこうしたことは宗教の世界においては珍しいものではない。そもそも西暦はキリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする数え方であるし、イスラムでは預言者ムハンマドがマッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)したユリウス暦622年を「ヒジュラの年」と定め、ヒジュラ暦元年とする新たな暦を制定した。

 『生書』は、「昭和二十一年、宇宙絶対神はこの年を神の国開元の年と選ばれた。」(p.205)と記しており、元旦の式は大神様の午前五時の水行によって始められたと伝えている。大神の様の祈りに続いて同志たちが全身全霊を込めて名妙法連結経を絶叫しながら霊動するさまは、キリスト教のペンテコステにも似た情景である。

 このときに行われた大神様による年頭のお歌説法の中で、天照皇大神宮教の魂や霊界に関する考え方が示されている。「人間この世に何しに生まれて来たか。人間はあらゆる生物一周し、人間界に魂磨きに生まれて来たとこなのよ。」(p.207)というのが人生の根本目的だというのである。

 これはインドのヒンドゥー教から仏教に受け継がれて日本にもたらされた「輪廻転生」の思想と同じである。仏教ではこの輪廻のことをとくに「六道輪廻」と呼び、死後の迷いの世界を地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの生き方(転生)に分けて整理した。その転生のあり方は善因善果、悪因悪果の応報説に基づいているとされた。すなわち人間あるいは天人として生まれるという善の結果は、前世の善業が原因となっており、地獄・餓鬼・畜生として生まれるという悪の結果は、前世の悪業が原因となっているというのである。したがって、他の生物から今回人間に転生したということは、前世の善業が幸いしてより高い生を受けたのだから、さらに魂を磨いて、より上の世界に行くことが人生の目的というわけだ。こうした考え方は統一原理の死生観とは一致しないが、これは既に過去のブログで解説したのでここでは深入りしない。

 この章で印象深い記述は、大神様の一人息子である義人氏の復員である。もともと大神様は愛国的な婦人であり、一人息子の義人氏はお国に捧げたものとして、たとえ戦地で死んだとしても本望であると考えていた。その義人氏が生還したのである。しかし、義人氏が久しぶりに故郷の田布施に帰ってきたときには、かつての母ではなく、すっかり新興宗教の教祖となった母の姿があった。そして二年振りに言われた最初のことばは、「おれは神茎(神の茎)になったのだぞ。」(p.214)であった。この「神茎(しんけい)」という言葉は天照皇大神宮教特有の造語であって、恐らくは神のみ言葉を伝える者という意味なのだろうが、漢字も示さず、意味も説明しないでいきなりそう言えば、「神経」すなわち気違いになったと思ったであろう。それに加えて、母親が神憑りになって多くの信者を家に集めている様子を見て、義人氏は反発し、家を出ようとしたのである。

 このような、宗教に没頭する教祖やその信者と、その家族との間に葛藤が生じることは古来からよくあった。国士館大学の教授であった宗教学者の塩谷政憲氏は、以下のように述べている。
「家族と、回心者を求めて活動する宗教集団とは、本来的に対立する契機をふくんでいるのである。例えば、イエスによって指名された弟子達は、親や家業をすててイエスにつき従ったのである。イエスは自分の言動が平和な家庭をかきみだすことに気づいていたし、気づいていればこそ、自分が来たのは平和な家庭に剣を投げこむためであると言い切ったのである。あるいはシャカにしても家族生活をすてて家を出たのである。出家ということそのものが家族の否定である。道元は、老母への孝養とおのれの出家遁世との矛盾に悩む僧に対して、『此こと難事なり。』と言いつつも『老母はたとひ餓死すとも、一子出家すれば七世の父母得道すと見えたり。』と答えている。」(塩谷政憲「宗教運動をめぐる親と子の葛藤」『真理と創造』24、1985年、p.59)。

 このように、激しい信仰の道を行く教祖的な人物や修道者は、家族から理解されなかったり、家族に対する人間的な愛情を否定しなければならないときがある。大神様と義人氏の関係は、復員直後にはまさにそのような関係であったと思われる。しかし結果的に見ればその関係は、仏教の開祖である釈迦牟尼とその息子であるラゴラの関係に似ていると言えるであろう。ラゴラは釈迦が出家する前に妻のヤショーダラーが妊娠した息子であるが、釈迦は悟りを開くためにこの妻と息子を捨てて、カピラ城を出て出家修道の道に入った。つまり一度は息子を捨てたということである。しかし、その後ラゴラは釈迦の弟子になり、最終的には十大弟子の一人に数えられ、正しい修行を為した密行第一と称されるようになったという。すなわち、親子の関係は信仰を中心として修復されたのである。

 同様に義人氏も、最初は反発していた母の教えに次第に感化されるようになり、最終的には神行を受け入れるようになる。そのプロセスにおいては、戦争で亡くなった義人氏の戦友の霊が現れるなど、霊界の実在を実感せざるを得ないような宗教的体験もあったようである。義人氏が神行を受け入れたことは、その後の天照皇大神宮教の後継体制を確立させていく上では一つの重要なステップとなったと理解することができる。後に義人氏は教団の中で「若神様」と呼ばれるようになる。そして義人氏の娘である清和氏が大神様の後を継ぐことになるのである。

 家庭連合の創設者である文鮮明師も、神に対する信仰のゆえに家族関係では多くの試練と苦しみを体験した人物である。文鮮明師の教えの中には、自分により近い関係にある者を「アベル圏」と呼び、より遠い関係にある者を「カイン圏」と呼ぶ考え方がある。そして自分からより遠い「カイン圏」を神の下に復帰するために、「アベル圏」に対する人間的な愛情を否定して、「カイン圏」を先に愛さなければならないと説いているのである。ときにはカインのためにアベルを犠牲にしなければならないこともある。

 文鮮明師の最初の息子は文聖進氏であったが、1946年に文師は妻子を韓国に残して北朝鮮に宣教に行かなければならないという神の啓示を受け、単身で38度線を越えて北に向かった。その後平壌で宣教活動を行うが北朝鮮政府によって投獄され、朝鮮戦争による混乱の中で北朝鮮の強制収容所から解放されて南下するまで、一度も妻子に会うことはなかった。釜山で伝道活動をしていた際に妻子が文師のもとを訪ねてきたが、先にカインを愛するという原則のゆえに、妻子に対する愛情を否定して、信徒たちの面倒を見たのである。まだ幼かった文聖進氏は父親から棄てられたような気持になったであろうが、最終的には父親の下に戻ってきた。

 文師の二番目の息子は文喜進氏であったが、伝道活動に出た際に列車事故で死亡している。韓鶴子総裁との間に生まれた息子・娘たちも、アベル圏よりも先にカイン圏を愛するという原則のゆえに、人間的な愛情を十分に受けることなく成長しなければならなかった。その中で長男の孝進氏は多くの試練を受けて荒れた青春を送るようになり、次男の興進氏は17歳の若さで交通事故で死去している。その他にも、文鮮明師の家族関係を巡る試練や犠牲はここでは列挙しきれないほどに多くある。

 こうした苦労や紆余曲折に比べると、大神様が体験した息子との葛藤は、ごく最初の段階で解消され、その後の後継体制は順調に確立されたと言ってよいだろう。大神様は1967年に亡くなっているが、その後は孫の清和氏が継いだ。清和氏は信仰上の教主の立場であり、教団のマネジメントは義人氏が宗教法人上の「代表役員」として受け持つようになった。しっかりした後継者が定まったことで、天照皇大神宮教は教祖の死後にありがちな分裂を経験しないですんだのである。

カテゴリー: 生書 パーマリンク