アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳74


第9章 感受性(6)

宗教的な要因

表11

表11

第3章で論じたように、統一教会がいかに「機能する」のかを理解するためには、(何よりも)それを一つの宗教運動としてアプローチしなければならない。このことは、ある人々は捕えるが他の人々は捕えない統一教会の魅力というものを理解しようとするには確かに必要である。ムーニーが、宗教を重要視する家庭の出身である傾向にあることは既に述べた。表11の(a)と(b)が示唆しているのは、少なくとも英国においては、神を信じないことが統一教会に対するかなり効果的な免疫になっているということだ(注18)。さらに、対照群の非常に多くの人々が神を信じていないという、幾分驚くべき事実が示唆しているのは、ムーニーと同様の年齢と背景の人々の相当数が、修練会に参加する前の段階で「自らを除外する」のは、無神論と不可知論が主な原因となっているのではないかということである。

統一教会に最初に出会ったとき(あるいは、対照群の場合にはアンケートに答えたとき)彼らがどのような信仰をもっていたかを尋ねると、全回答者の過半数はなんらかの特定の教派の名前を挙げるのを控えた。彼らは、神は信じているけれども、ある特定の宗教は拒絶するか、あるいはある特定の宗教に属しているとは感じていないと述べた。実に、この調査からもっとも強力に現れてきた傾向の一つは、「全ての」若者たちが経験している、より伝統的な教会に対する幻滅であった。一般的に言えば、ローマ・カトリック教会は偽善であるという非難を最も多く引き出した。この言葉は全ての既成宗教についても(さまざまな風変わりなスペリングで)繰り返されたけれども。(訳注:括弧内は、アンケート用紙に記入された偽善=hypocrisyという単語のスペルに間違いが多かったことを皮肉っていると思われる)非国教徒の教会は、より穏やかな曖昧もしくは拒絶の表現を受けていた。そして英国国教会は、軽蔑的な無関心を示される傾向が最も強かった。対照群は、批判(とくにカトリック教徒の中で)においても、また時として好意的な意見(とくに非国教徒の中で)においても、最もはっきりとしていた。ムーニーになるような人々は、自分が育てられた教会に関心を失っており、何かそれに替わるものを探していたと言う傾向があった。
ほとんど全てのムーニーが運動に出会った後にある種の霊的または宗教的な体験をしたと言ったが、彼らの優に4分の3以上は、運動に出会う「以前にも」そのような体験をしていたと主張した(注19)。その体験の最も共通している形態は、神あるいはイエス、その他の人物が臨在しているという感覚であるが、かなりの数の者たちが神やイエスのビジョンを見たり、彼らが自分たちに話しかけてきたのを聞いたりしたと主張した。その他の体験には、感覚が敏感になったとか向上したとかいうものや、世界や自然との強い一体感や調和感が含まれていた。そのような体験をしたという回答者の大部分は、そうした体験が何らかの形で彼らの人生観を変えたと報告した。通常はそれによって彼らの幸福感や安心感は増大した。ほぼ半数のムーニー(対照群の3分の1)は、その体験が彼らにある種の宗教的意味、目標、希望を与えたと言っている。さらにムーニーの5分の1(対照群の7%)は、その体験の結果として、自らの人生を神に捧げたと主張した。
しかし、その体験がそれほど多くの回答者に対して持っていた重要さにもかかわらず、ムーニーの半数近く(対照群の3分の1以上)は、なにが起こったかを誰にも話していなかった。対照群は、黙っていたのはそれを自分の胸に秘めておきたかったからだと言う傾向が強いのに対して、ムーニーは誰も理解しないだろうと感じたからであるという傾向が強かった。すなわち、彼らは奇妙に思われることを恐れたのであり、あるいはその体験を誰かにからかわれる危険を避けたかったのである。
実際には、私の回答者たちはこの点において、彼らならびにおそらく他者が信じるほど異常というわけではなかった。米国と英国の全人口の約3分の1がそのような体験をしていたことを認めており、その数字は高学歴の人の方が高くなっているのである(注20)。デビッド・ヘイは、そのような体験をしたかどうかを100人の大学院生に聞いたところ、65%の肯定的な回答を得ている。これは私が対照群から得た数字よりもわずかに高かった。へイはまた、彼の回答者の多くが、その体験について話したがらなかったと報告している。特徴的な回答は次のようなものだったという。「いや、私は誰にも話さなかった。その理由は単純だ。そうしたことを信じない人がとても多いし、彼らにばかにされるからだ。」(注21)

統一原理を学ぶメンバー(9章219ページ上)

統一原理を学ぶメンバー(9章219ページ上)

祈祷会(9章219ページ下)

祈祷会(9章219ページ下)

(注18)アメリカ人についての私のデータは、英国のムーニーよりもさらに高い割合で、彼らが統一教会に出会ったときに神を信じていたことを示唆している。しかし、アメリカ人は一般的に、欧州の人々よりも神を信じていると告白する傾向にあることと(ギャラップ「アメリカの宗教、1982年」プリンストン宗教調査センター、1982)、アメリカの修練会に参加して入教しない人々についての情報をわれわれは持っていないことから、この情報はそれ自体ではあまり多くのことを教えてくれない。「ニューズウイーク」に掲載された1983年のキャンパス調査(「最新動向」プリンストン宗教研究センター、第5巻、5号、p.2)によれば、アメリカ人学生の91%が神あるいは普遍的な霊の存在を信じていると述べ、5%が信じていないと述べ、4%がよく分からないと述べた。その一方で、教会やシナゴーグの会員である学生は3分の2に過ぎなかった。
(注19)私は次の二つの質問を尋ねた。第一は、アンドリュー・グリーリーが「超常現象の社会学:予備調査」ベバリーヒルズ/ロンドン、セージ出版、1975の中で用いた以下の質問である。「あなたを引き上げてくれると思われる強力な霊的力を非常に近く感じることが、どれほど頻繁にあるか?」これに対して、ムーニーの23%が運動に出会う以前は「全くなかった」と答え、14%が統一教会に出会って以降も「全くなかった」と答えた。そして対照群の43%が「全くなかった」と答えた(全国世論調査で尋ねられたときには、英国の人口の69%が「全くなかった」と答えている。D・ヘイ「内的宇宙の探求:20世紀においても神は存在し得るか?」ハモンズワース、ペンギン、1982、p.118を参照。そして米国では65%がグリーリーに対して否定的な回答をした)。第二の質問は、アリスター・ハーディ卿の考案した以下の質問である。「あなたがそれを神と呼ぶかどうかは別として、あなたの日常の自己とは異なる存在または力を、どれほど頻繁に認識しているか、あるいは影響を受けているか?」これに対して、ムーニーの13%が統一教会に出会う以前は「全くなかった」と答え、4%が統一教会にいるときにも「全くない」と答えた。対照群の39%が「全くない」と答えた(全国世論調査では英国の人口の64%が「全くなかった」と答えている。D・ヘイ「内的宇宙の探求」p.118を参照)。以下の著作も参照せよ。T・ベアーズウォース「臨在の感覚」宗教体験研究ユニット、オックスフォード大学マンチェスター校、1977;E・ロビンソン「オリジナル・ビジョン」(1977)と「疑問と共に生きる」(1978)、どちらもオックスフォード大学マンチェスター校、宗教体験研究ユニットの出版。
(注20)ヘイ「内的宇宙の探求」p.122
(注21)同書p.158

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