『生書』を読む03


第一章 大神様の生い立ち

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第3回目である。今回から、「第一章 大神様の生い立ち」に入る。教祖伝が教祖の誕生の物語から始まるというのは、新約聖書の福音書もそうであり、決して珍しいことではない。

 大神様は西暦1900年(明治33年)の元旦に、山口県玖珂郡日積村大里の一農家に生まれたとされる。世の中では義和団事件が起こるなど様々な出来事があったが、そうした変遷から取り残されたような田舎に生れたことが『生書』では強調されている。

 父の名は浴本長蔵、母の名はウラといい、その四女として大神様は生まれている。長蔵氏は浴本家に養子で入った立場であり、ウラさんも他家から入籍した、いわゆる取り子取り嫁であったことなどが簡単に書かれている。いわゆる教祖伝としては特徴的なのが、誕生にまつわる神秘的な出来事が一つもないことである。ある意味ではすがすがしいまでに、何の変哲もない田舎の農家に大神様は誕生したと書かれているだけである。

 これはキリスト教におけるイエス誕生の物語と比較すると分かりやすい。そもそもイエスは母マリヤが身ごもる前に、天使ガブリエルから「受胎告知」を受け、主が共におられること、男の子が生まれてイエスと名づけるべきこと、その子は王位につき、聖なる者、神の子と呼ばれることなどが天使の口を通して語らている。さらに誕生時には東方から三人の博士たちが星に導かれてイエスのもとを訪ねてきて、母マリアと一緒にいた幼子イエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物として捧げたとされている。イエスが誕生して40日後にエルサレムの神殿を訪れたときには、篤実なユダヤ教徒であるシメオンとアンナが幼子を見るなり、この方こそ待ち望んだ救い主であると証しをしている。

 さらには、「ユダヤ人の新しい王となる子」がベツレヘムに生まれたと聞いて怯えたユダヤの支配者ヘロデ大王が、ベツレヘムで2歳以下の男児を全て殺害させるという出来事も起こっている。これはこの世の支配者がメシヤを恐れることを示すストーリーであり、その意味では神秘的な出来事と言える。このようにして見ると、新約聖書はイエスの誕生に関わる神秘的な出来事を数多く記載していることが分かる。これはイエスが普通の人間ではなく、特別な神の子であり、救い主であることを証しする目的で書かれている。すなわち幼子は生まれたときから特別な存在であり、神格化されているのである。そもそもキリスト教ではイエスは処女マリヤから生まれたとされており、普通の人間ではないのである。

 釈迦の誕生時の伝説としては、母マーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、「天上天下唯我独尊」と言ったという物語がある。これも通常ではありえない神秘的な話である。

 実は家庭連合の修練会で語られる「主の路程」と呼ばれる講義案の中にも、文鮮明師が誕生した村では、金色の鳥が三年前から飛来して泣いたとか、母親がお腹に龍が入る夢を見たとか、家の周囲の林にクモの巣のようなものが張り巡らされてサタンが妨害したとか、神秘的な出来事が語られ、それらがメシヤ誕生の前兆であったと理解されている。

 このように一般に教祖伝では、教祖の誕生に際して神秘的な出来事が起きたことを記述することにより、教祖が特別に神から選ばれた存在として誕生したことを証しすることが多いのであるが、『生書』の大神様にはそうしたことが一切ないのである。こうした教祖像は、天照皇大神宮教の特徴の一つであろう。

 父親の長蔵氏は、「短期は激しい気性の人で、義侠心が至って強く、部落、他部落の人々から敬愛され、まじめで分別のある人であった。」(p.4-5)とされ、母親のウラさんは「優しく女らしい、すこぶる信仰心のあつい人で、度々寺に参ってよくその世話をされた。」(p.5)とされている。実直な人柄ではあるが特別な宗教的カリスマがあるわけでもなく、高貴な先祖を持つ由緒ある家柄というわけでもなく、飛び抜けた能力や力を持つわけでもない、ごく普通の父母であるが、「その家庭は、誰も陰日向のない互いに開けっ放しの気軽さで、明るい家庭であった」(p.5)とされている。「サヨ教祖は純然たる片田舎の一農家に誕生し、結婚されるまでそこで生い立たれたのである」(p.5)と言い切っているのである。

 『生書』では、「純朴な農村」「浮世をよそにした」「大自然の懐」「質朴な農家」が大神様が成長された環境であることを強調している。ここに天照皇大神宮教の価値観が表れていると思われる。すなわち、大自然の中で素朴で純粋に育ち、土地と共に汗を流して働いて生きる姿こそが、人間の本来の姿であると考えているということだ。その意味では、都会での豊かな暮らし、資本主義と経済成長、工業化や情報化といった近代的な価値観とは真逆の価値観であると言える。

 文鮮明師の生家も、韓半島の平安北道定州郡(現在の北朝鮮)の農村であり、似たような環境で育ったと言える。文家の家風を表すエピソードとしては、曾祖父の文善玉氏が人に食事を振る舞うことを無上の喜びとしたという話が残っており、文鮮明師の自叙伝には「『八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる。』これが亡くなる際に遺した言葉です。そんなわけで、わが家の奥の間はいつもたくさんの人でごった返していました。『どこそこの村の文氏の家に行けば、ただでご飯を食べさせてくれる。』と村の外にまで知れ渡っていたのです。母はやって来る人たちのつらい世話をてきぱきとしながら、不平を一度も言いませんでした。」(『平和を愛する世界人として』P.21)と記されている。

 文鮮明師の幼少期も、大自然に恵まれ、両親から愛されたという点では大神様と共通点がある。自叙伝の中にも、自然から平和について学んだという話が出てくるし、父親の背中で平和の味を知ったという逸話も出てくる。
「山で跳び回っているうちに、そのまま眠ってしまったこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を捜しに来ました。『ヨンミョン!ヨンミョン!』という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明(ヨンミョン)です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。」(『平和を愛する世界人として』P.15)            

 『生書』はサヨ教祖の幼少時の性格として、「男勝りの方でした。本当に頓智のよい面白い方で、女ながらに木登りなども上手で、また、よくケンカもされた。」(p.6)とか、「肚の据わった、ものに頓着しない方だった」(p.7)などと述べている。後に教祖として頭角を現す片鱗を早くも見せていたと言えるであろう。

 一方、文鮮明師の幼少期の性格としては、「あらゆる部門に素質、好奇心と探究心が旺盛」「自然を愛する、冒険好き」「鋭い洞察力、観察力、直観力」「正義感が強い、負けん気、忍耐強い」「(度が過ぎるほどの)奉仕好き」「情が豊かで深い、情にもろい」「リーダーシップと統率力」といったことが「主の路程」の講義では語られる。村人たちは文少年のことを「将来、良くなれば王様になり、悪くなれば逆賊になる。」と評価していたという。これもある種の教祖的な性格を子供のころから備えていたと言うことができるであろう。

 女性と男性という違いはあるものの、大神様と文鮮明師の生い立ちと育った環境、そして幼少期の性格には、多くの共通点があると言える。

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