書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』127


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第127回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、前々回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Hの事例の3回目である。
櫻井氏がつけた「家族との葛藤が信仰のバネに」というタイトルは、「信仰と家族との葛藤が余計に信仰を強化する」という現象こそ統一教会の信仰の特徴であると彼が認識していることを物語っている。そしてそこには、統一教会の信仰は異常で家族関係を破壊する有害なものだという含意がある。しかし、子供が宗教に入ったことを親が反対したり、妻が信仰を持ったことを夫が反対するというのは、特に新宗教においては良くあるケースであり、その際に家族の反対を受けることで余計に信仰が強化されるというのも珍しい話ではない。既に多くの事例を挙げて説明してきたとおり、迫害を信仰の糧とする伝統は多くの宗教に見られるからであり、それは家族からの迫害であっても同様である。

 イエス・キリストはマタイによる福音書の中で、「またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)と語っている。イエスの言葉は、迫害が却って信仰の正しさを証明するのだと言わんばかりである。そしてその迫害は、最も近い自分の家族からもなされるが、それもまた必然であるとイエスは語っている。
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:34-37)

 イエスが弟子たちに命じたのは、家族よりも自分を愛せということであった。こうした信仰のあり方が必然的に家族との葛藤を生み出すことは明らかである。かつて原理研究会に関する調査研究を行った塩谷政憲氏は、この問題をテーマにした論文をいくつか発表している。彼の分析は、回心者を求めて活動する宗教集団と家族集団とは、そもそも競合すべき性格をもっているというものだ。彼はこのことをイエスや釈迦や道元の言葉を例に挙げながら、歴史的に常に起こってきた葛藤であると説明している。
「もっとも、これは統一教会に特有ということではなく、家族と、回心者を求めて活動する宗教集団とは、本来的に対立する契機をふくんでいるのである。例えば、イエスによって指名された弟子達は、親や家業をすててイエスにつき従ったのである。イエスは自分の言動が平和な家庭をかきみだすことに気づいていたし、気づいていればこそ、自分が来たのは平和な家庭に剣を投げこむためであると言い切ったのである。あるいはシャカにしても家族生活をすてて家を出たのである。出家ということそのものが家族の否定である。道元は、老母への孝養とおのれの出家遁世との矛盾に悩む僧に対して、『此こと難事なり。』と言いつつも『老母はたとひ餓死すとも、一子出家すれば七世の父母得道すと見えたり。』
と答えている。」(塩谷政憲「宗教運動をめぐる親と子の葛藤」『真理と創造』24 1985年、p.59)。

 初期の統一教会への回心者は、大学生をはじめとして未婚の若者たちが多かった。したがって主な迫害は親から来るものであり、その最たるものが実の親による子供の拉致監禁であった。日本の新宗教で拉致監禁による強制棄教の被害に遭った人数は、統一教会の信者が圧倒的に多く、その次に多いのはエホバの証人であろう。教団自身の調査によれば、統一教会の場合には4000件以上、エホバの証人の場合には百数十件ほどである。エホバの証人では、妻の信仰に反対する夫が、妻を監禁して信仰を棄てさせようとするケースが多かったという。統一教会の場合には親による子供の監禁が多かったのだが、1980年代以降は統一教会の信者にも「壮婦」と呼ばれる既婚女性が多くなってきたため、エホバの証人のケースと同様に、夫が妻を監禁して棄教させるケースが出てきた。櫻井氏の紹介する元信者Hは、2000年に夫によって「保護」され、「長い話し合い」(p.374)を行ったということであるから、実態は監禁による棄教説得だったのだろう。櫻井氏は実際には監禁されて棄教した青年の元信者に関しても、「保護」や「話し合い」という表現を用いているので、これらの言葉は「監禁」と「説得」に読み替えることが可能である。

 さて、元信者Hの信仰生活はどのようなものだったのだろうか。彼女は「女性の訪問から四ヶ月後、実践トレーニングで『お茶売り』を行い、友人・知人にCB展(クリスチャン・ベルナールという統一教会関連企業の服飾・宝石販売会場)への動員も行い、半年後には手相の勉強中と言いながら二人組で戸別訪問した。その頃は、全てが新しいことでどんどん吸収しながら、のめり込んで行った。」(p.372)ということだ。この記述からは、Hが脅されたり説得されたりして嫌々ながらに活動をしていたのではなく、主体的な意欲をもって、それこそ「のめり込んで行った」様子がうかがえる。要するにHは活動が楽しかったし、興奮していたのである。Hは体を動かすことで充実感を得る活動的なタイプであった可能性が高い。そして統一教会の中には、活動にのめり込む中で充実感や興奮を感じるタイプの人は一定の割合でいると思われる。

 Hの信仰は、夫や子供から理解されることはなかった。夫は妻の教会通いをやめさせるために引っ越しまでしたが、それでもHは再び教会に戻った。日中だけでなく、早朝や深夜にまで教会に出かけることも多く、自分の頭の中には統一教会のことしかなく、「また行くのか」という夫の言葉や「家にいて」という子供の声をふりきって教会に行っていたという。(p.372-3)
「一九九七年、ワシントンで開催された合同結婚式に既成祝福として参加した。当然のことながら夫は同行に応じるわけがなく、姑や子供達も猛反対した。そうした家族の反対を押し切って渡米し、夫の写真を抱いてワシントンのロバート・ケネディスタジアムの合同結婚式に出た。・・・夫は妻の信仰を全く理解せず、何の価値も見出していなかった。そうした夫であっても祝福を受けたからには必ず現世がだめでも霊界では幸せになれるという確信があった。その頃からHの信仰は命がけになっていった。」(p.373)

 こうしたHの信仰は、家族の気持ちを無視したとんでもない信仰であると櫻井氏は言いたいのであろうし、常識的な人の多くは彼の主張に同意するであろう。しかし、迫害を信仰の糧とする宗教の伝統から見れば、Hの信仰はまさに称賛すべきもであった。イエス・キリストはマタイ伝で次のように語っている。
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)

 そして、たとえ自分の信仰を理解せずに迫害する夫であったとしても、自分が祝福を受ければ霊界では幸せになると信じたHの信仰は、老母への孝養とおのれの出家遁世との矛盾に悩む僧に対して、「老母はたとひ餓死すとも、一子出家すれば七世の父母得道すと見えたり」と諭した道元と全く同じ発想である。現世においては「親不孝者」「とんでもない妻」「ひどいお母さん」などと罵られようとも、信仰を立てて功徳を積めば、来世においては報われるという発想である。「殉教」は自分の命を犠牲にして来世の幸福を得ようとする行為だが、これは現世における人間関係を犠牲にして来世の幸福を得ようとする信仰であり、Hも一時期は「殉教精神」に近い心理状態になっていたと推察される。こうした心理状態は、「死なんとする者は生きん」という言葉がHの中にすみつくようになった(p.373)という櫻井氏の記述とも一致する。
「神様とメシヤだけは自分の苦しさ、悲しさを全て知っている。信仰の兄弟姉妹はわかっている。それだけがHの唯一の慰めだった。だからこそ、教会に行き、同じような境遇で苦しんでいる壮婦達と気持ちを分かち合っていた。」(p.373)という記述も、迫害された宗教団体や、マイノリティー・グループの中に自分の居場所や精神的安らぎを見いだす人々の典型的な状況であり、統一教会に特異な現象であるとは言えない。

 ここでHの信仰を家族からの逃避であると批判することはたやすい。しかし、家族の中に自分の居場所を見いだせず、宗教の中に生きがいを見いだし、それにのめり込むことで家族の中でますます居場所を失っていくという悪循環が起きるとき、その信仰を持った個人が一方的に悪く、家族は被害者であると言い切れるであろうか? もともと家族関係に問題があったからこそ、Hが信仰を持つようになったのだとすれば、その原因の一端は家族にもあったとは言えないだろうか。そして家族の中に、なぜ自分の妻や母親がそれほど宗教に入れ込むのかをもっと共感的に捉える姿勢があれば、信仰と家族の関係は違ったものになっていたにもかかわらず、それを理解しないで一方的に反対することによって、Hの「殉教精神」に火をつけた可能性はないのだろうか。これは非常に複雑な問題であり、解決には双方の歩み寄りと共感力が必要だ。櫻井氏のような一方的な理解しかできないようであれば、最後は拉致監禁による強制棄教という暴力的な手段に訴えるしかなくなってしまうだろう。

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