国連を舞台とする米中の動向と日本01


 今回から「国連を舞台とする米中の動向と日本」と題する新しいシリーズの投稿を開始します。私が事務総長を務めるUPFは、国連経済社会理事会の総合協議資格を持つNGOであるため、国連の動向に対しては関心を持たざるを得ません。最近の国連において最も懸念すべき問題は、中国の影響力の増大と米国の国連離れです。このシリーズでは、国連の成り立ちから始まって、米中が国連を舞台にどのような抗争を繰り広げているのかを解説します。その中で日本の立ち位置も考えてみたいと思います。

挿入画像01=国連を舞台とする米中の動向と日本

 昨年は国連が創設75周年にあたる節目の年であったわけですが、国連広報センターでは国連75周年を記念するロゴを作成して、次のような文言を語っていました。
「2020年、国連は創設75周年を記念し、かつてない規模のグローバル対話をはじめます。テーマは、私達が望む未来の構築におけるグローバル協力の役割です。」

 つまり、グローバルに対話と協力を進めようということが昨年の国連のスローガンになっていたわけです。しかし、それとは裏腹に昨年の国連総会で何がおこったかというと、米中の激しい対立でした。

挿入画像02=国連を舞台とする米中の動向と日本

 アメリカのトランプ大統領(当時)は中国の新型コロナウイルス対応を激しく批判し、国連は中国に行動の責任をとらせないといけないとか、WHOは中国に実質的にコントロールされているなどと、中国を名指しで非難しました。それに対して中国は、アメリカに対して名指しの非難は避けつつも、多国間主義を重視する姿勢を示しました。習近平主席は、「私達は断固として多国間主義の道を歩み、国際関係の核心としての国連を守る」と発言しました。

 これは国連においてははかなり優等生的な発言ということになり、こうしてみると中国の方が国連や国際機関を尊重していて、アメリカが国際協調を乱しているという絵になってしまっているわけです。しかし、これは裏をかえすと国連という機関が中国の国益を追求する上において非常に便利な機関、役に立つ機関になっているということを逆に示しているのです。

 一言で国連といっても、実は3つ側面があります。1つ目は政治の国連であり、これは安全保障理事会に代表されるものです。2つ目は経済の国連であり、世界銀行、国際通貨基金、世界貿易機関などの活動になります。3つ目が社会・人道の国連になり、経済社会理事会、人権、ユニセフ、国連難民高等弁務官事務所などに代表される、人権と人道に関わる国連の活動があります。

 UPFのようなNGOが関わる国連というのは3番目の部分であり、経済社会理事会の総合協議資格を持って活動していることになります。この分野における国連の活動は大変立派なものであり、一定の評価を受けています。しかし、政治の国連の方は多くの矛盾や問題を抱えていることがしばしは指摘されています。このシリーズの目的は、この「政治の国連」についてお話をさせていただくことにあります。

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 国連について理解するためには、その成立過程を正確に知らなくてはなりません。いまある国連ができるようになった最初のきっかけは、「大西洋憲章」と呼ばれるものです。これは1941年8月、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が、大西洋上に浮かぶ“Prince of Wales”という軍艦の上で調印したものです。この憲章が調印された動機は、日独の暴走を排除して、戦後の世界に国際連盟に代わる平和維持機構を創設しようということでした。

 ご存知のように第一次世界大戦が終わって国際連盟ができたわけですが、それが機能不全に陥って戦争を防ぐことができず、世界は第二次大戦に突入していきました。この「大西洋憲章」が調印された1941年8月の時点では、ヨーロッパではドイツとの戦いが始まっていましたが、太平洋戦争はまだ始まっていませんでした。しかし、日中戦争は続いており、アメリカとイギリスは中国を支援していたという立場です。ですから、日本との対決は避けられないというような状況の中で、戦争が終わったあとにどんな世界秩序を作っていくのかを、基本的には大英帝国とアメリカが主導して考えようということだったのです。この頃、大英帝国は植民地をたくさん持っている巨大な勢力でした。これが国連の発端であり、要するにその出発点は「米英による世界秩序の構築」ということになるわけです。

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 第二次世界大戦の最中に、ルーズベルトとチャーチルは連合国を構成する国の元首に会っていきます。カイロ会談では蒋介石に会い、テヘラン会談ではスターリンと会談して、ルーズベルトのアメリカ、チャーチルのイギリス、蒋介石の中国、スターリンのソ連の4カ国が、戦後において「世界の警察官」の役割を果たして、平和と秩序を維持していこうということで一致したわけです。これを「四人の警察官構想」と言います。これが国連の原点となります。

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 この構想がそのままヤルタ会談に持ち込まれ、やがて形を作っていくこととなります。第二次世界大戦も終盤に入る中で、戦後処理のあり方について連合国の首脳がクリミア半島のヤルタに集まって話をしました。このときに国際連合についても討議がされ、その大枠ができていくことになります。上の写真を見ていただくと、真ん中に座っているのがルーズベルトです。やせ細ってガリガリです。このときルーズベルトは不治の病にかかっており、死の直前でした。このとき、チャーチルとルーズベルトとスターリンの間には微妙な温度差があったと言われています。チャーチルは反共主義者で、スターリンのことを「油断のならないやつだ」と警戒しておりました。しかし、ルーズベルトはスターリンに対して「話のわかる男だ」ということで、シンパシーを抱いていたのです。ルーズベルトのソ連に対する認識は、進歩的な社会主義の国だというくらいのものであり、彼はソ連の本質を見抜けていなかったのです。

 このヤルタ会談で「四人の警察官構想」という構想が具体的に固まっていきます。すなわち、米英ソ中の4カ国で戦後の世界秩序を確立して平和を維持しようという構想です。これが「連合国=国連」の基本理念となっていきます。4カ国の同意のもとに、強力な軍事力によって平和と安全を維持していこうという考え方です。そこに後からチャーチルの提案で、形だけの戦勝国となったフランスを加えた5カ国で安全保障理事会の常任理事国を形成していこうという話になりました。実は第二次大戦ではフランスはドイツによって壊滅的な打撃を受け、事実上の敗戦国みたいなものだったのですが、フランスのもつ文化的な影響力を考慮して、チャーチルが「フランスも入れよう」と言うことにより、結局「5大国」ということになりました。このようにして、安保理の全ての決議に「5大国一致の原則」を貫こうということが、ヤルタ会談で確認されたのです。ここで同時に、スターリンの強い要求で、5カ国のうち1カ国でも反対すれば決議案は通らないことにしようという、「拒否権」というものをお互いに認め合ったのです。

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