書評:大学のカルト対策(11)<3.大学のカルト対策と信教の自由②>


 弁護士の久保内浩嗣氏による第一部の三番目の記事「3.大学のカルト対策と信教の自由」に対する分析の2回目です。先回は私が久保内弁護士の主張の内容を要約しましたが、それに対する批判に関しては、「餅は餅屋」ということで福本修也弁護士にインタビューして語っていただくことにしました。

 福本弁護士は、室生忠編著『大学の宗教迫害』(日新報道)で大学の宗教迫害に関するインタビューに答えているので、この問題については熟知していますし、佐賀大学の女子学生が元指導教官と大学を訴えた民事訴訟では、女子学生の代理人を務めています。

 この問題は、信教の自由、学問の自由、大学の自治など、憲法に関わる重大なテーマなので、久保内論文の細かい点を指摘していただく前に、これらの概念の意義について基本的な内容をレクチャーいただくことにしました。法律の専門家の話なので、若干堅い内容になりますが、お付き合いください。

問:大学の「カルト対策」について語る前に、人権について憲法の観点から解説してください。

 大学の「カルト対策」には、「信教の自由」と「大学の自治」が関わっています。ここで問題となっている人権は「信教の自由」であり、それに対して大学側は、大学の自治に基づいて「カルト対策」を行っていると主張しています。

 そもそも人権とは何か、というところから話しましょう。憲法が保障する人権(信教の自由、思想・信条の自由etc…)は、本来、国家に対して主張するものです。すなわち、私人が国家に対して、「国家は、個人の人権を侵害してはならない」と主張するということです。

したがって、国が人権に対して一定の制約をかける場合、その合理的制約をする根拠が必要となります。このとき、国家の都合ではなく、他の人権との関わりにおいてのみ合理的制約に服するということになります。すなわち、人権を制約できるものは、人権しかないという原則が存在するのです。例えば、表現の自由も、他人の名誉、プライバシーといった人権を侵害することは許されないのと同じように、他者の人権との関わりにおいてのみ、人権は制約できるということです。万が一、国が合理的制約を超えて、過度に「人権」を制約する場合は、それは憲法違反となり、無効になります。

一方、個人と個人(私人と私人)の関係においては、憲法が保障する本来の宛先(国家)とは違います。それでは、対抗するものが、大学教授、大学当局、大学職員などの個人である場合は、憲法の保障を受けることはできないのでしょうか? 結論としては、国ではなく、他人によって侵害を受ける場合も、信教の自由としての保障を受けます憲法は本来、「国」対「個人」を前提としていますが、私人(しじん)間においても憲法の保障が間接的に効力を有するのです。これを、「人権の私人間効力」と言います。

他人の間のルールを定めたのが民法です。不法行為を行えば、損害を賠償しなければなりません。民法第709条には、「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保障される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」とあります。この権利の中には、所有権、債権、財産権などがありますが、それ以外に、権利を生むところの概念として、目に見えない人権(信教の自由、学問の自由、思想・信条の自由、表現の自由etc…)があります。

 

問:信教の自由について解説してください。

 

信教の自由は、日本国憲法第20条によって保障されています。文面は以下の通りです。

信教の自由(憲法20条)

  1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない
  3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

1で、「保障する」というのは、国が保障する、ということです。国が個人の信教の自由を侵害してはならない、と定めるもので、そのためには、宗教に特権を与えてはならないとします。

2で「強制されない」というのは、国によって強制されないということです。例えば、「靖国神社に行け、行って参拝しろ」とか、「神道を勉強しろ」と、国は国民に強制してはならないということです。

3は、「政教分離原則」を規定しています。

さて、憲法第20条1項前段の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とされている「信教の自由」に関して、補足説明をします。信教の自由の中身には、①信仰(内心)の自由、②宗教的行為の自由、③宗教的結社の自由、の三つがあると解釈されています。

内心の自由(内心の信じる自由)の意味ですが、「内心」とは、心で何を信じるか、信じないか、心の中で何を思っているかということです。この内心の自由は、いかなる制約も課すことはできない絶対的保障を受けています。すなわち、法律で、国が内心の自由を制約することはできないのです。たとえ、オウム真理教を信じることであったとしても、内心の自由である限り、国はそれを禁止することはできないのです。

ところが、布教や伝道などの外部的自由となると、その保障は絶対的ではありません。外との関係において、宗教的な理念を表現し、なおかつ活動する場合には他人の人権とぶつかる可能性があり、その場合には、制約が可能だということです。例えば、オウム真理教に対して、「危険な団体」と公安委員会が指定して、規制を加えています。これは、内心の自由について制約しているのではなく、あくまでも活動部分に着目しての制約であるので、憲法違反ではないとされています。

もう一つ、信仰告白の自由(信仰告白を強要されない自由)というのがあります。何を信仰しているのかということを、他の人から聞かれる、告白を強要される、これは許されないということです。信仰告白の強要の代表例が、江戸時代の「踏み絵」です。幕府がクリスチャンをあぶりだすために、キリストの絵を、マリア様の絵を踏めと強要する。これによって、信仰告白の自由がまさに侵害されていた時代があったのです。

次に政教分離原則ですが、これは要するに国が宗教に関わってはいけないということで、これを、制度的保障と言います。制度的保障とは、中核となるのが、信教の自由(信じる自由、信じない自由など)とすれば、この自由を侵害しないための、外堀のようなものです。

humanrights つまり、大阪城には、天守閣(本丸)を守るために、その周りに内堀があり、また、その外側に外堀がある。同様に、本丸である人権を守るために外堀を設けて、制度として保障する、というものです。人権侵害の行為を外堀で止めるのが目的です。

中には、外堀を越えて入ってくる者もあるかもしれないが、できるだけ外堀で止めるために、「国が宗教に関わってはいけない」と規定することで、本丸の「信教の自由」への侵害を防ぐ。この外堀が、「政教分離の原則」という制度的保障です。

国公立大学が、特定の宗教を抑圧したり、○○派のキリスト教牧師に会って話を聞くよう指導したりする行為は、この「政教分離の原則」違反であるから、憲法違反となります。

カテゴリー: 書評:大学のカルト対策 パーマリンク