日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ04


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 こうした修行をして仏教が目指したのは何かというと、解脱であり、涅槃寂静という境地に至ることです。これが仏教の目指している究極的な理想であり、目標です。仏教以前からインドには「六道輪廻」という考え方があって、人間は死ぬと次の世である「来世」に行くわけですが、それが6つの世界に分けられています。いま人間界にいるとすると、その上には天上界というより高い世界があって、人間界の下には修羅、畜生、餓鬼、地獄という世界があるわけです。そして、生きているときの行いによって、次に行く世界が決まって、この6つの世界をぐるぐる輪廻しているというわけです。この「六道輪廻」という世界も、まだ迷いの世界なので、ここから脱して仏の世界に入ることを「解脱」と呼んだわけです。つまり仏の世界というのは、この6つの世界をさらに超越した上の世界であって、その世界に入ることを「解脱」と呼んだのです。

 お釈迦様が説かれた「根本仏教」がどんな宗教かということを分析すれば、まず極めて「自力型」の宗教であるということが分かります。つまり、仏教とはどんな宗教かといえば、「修行によって悟りを開くこと」を目的とした宗教だということになります。ですから、神様に救ってもらおうというタイプの宗教ではないわけです。お釈迦様の当時、バラモン教は「呪術」を行っていました。「呪術」とは、おまじないのことです。これは呪文を唱えて災いを除き、幸福を招く行為であって、「大学に受かりますように」とか願いをかけて護摩を焚いたりするのは、呪術と呼ばれる行為です。お釈迦様は、仏教の僧侶に対してこれをやってはいけないと言ったわけです。普通は、世俗的な願いを果たすために呪術をするわけですが、仏教の目的はそういう欲望を捨て去って悟りに至ることにあるわけですから、呪術などやってはいけないとお釈迦様は教えられたわけです。

 お釈迦様は常に「自燈明」「法燈明」ということを教えられました。これは、「自らを燈明とし、自らを頼りとして、他人を拠所とせず、法を燈明とし、法を頼りとして、他を拠所とせずに修行しなさい」という意味です。つまり、誰がこう言った、彼がこう言ったということに惑わされることなく、自分で悟って、法を頼りにして生きなさいと言ったという意味では、かなり自力型の宗教であると言えます。

 さらにもう一つ言うと、仏教は個人主義的な現世否定の宗教であると言えます。例えば、因果応報という教えがあります。「善因善果」「悪因悪果」と言って、善なることをすれば善なる結果が現れる、悪なることをすれば悪なる結果が現れる、ということで非常に合理的ですね。さらに「自業自得」ですから、自分の行為の結果は自分に跳ね返ってくるということですので、個人主義ということになります。

 ですから、お釈迦様の説いたオリジナルの仏教は徹底した個人主義の教えであって、その究極的な目的は生死輪廻からの解脱、言い換えれば、どこまでも個人の安心立命の境地にあるわけです。これを「涅槃寂静」と言います。したがって、仏教本来の理想社会は家でも家族でもなく、まして国家でもありません。それは出家求道者の集団である僧伽(サンガ=僧の集団)であったのであり、むしろ家庭は愛欲煩悩の場として、相対的に否定されるべきものであったとさえ言えるわけです。これが、お釈迦様の説いた仏教の本質ということになるので、仏教の理想は出家してお坊さんになることなんです。

 それでは、お釈迦様が亡くなった後にどうなって行くかというと、お釈迦様が入滅されて100年くらい経ったころに、「根本分裂」と呼ばれる大きな分裂が起きるようになります。これは信徒として守るべき「律」を巡って、保守派と改革派が対立することにより、仏教自体が大きく二つに分かれたわけです。保守派の方を「上座部」と言います。これは、上の方の席に座っていた偉いお坊さんたちの派ということで「上座部」と呼ばれたわけですが、これは伝統に従って戒律を厳格に守らなければいけないと主張しました。上座部仏教の理想は、「阿羅漢(あらかん)」と言って、最高の悟りに達した聖者のことです。彼らは阿羅漢になるには出家しなければならないと主張し、修行を重要視し、自己の解脱を最高の目標としました。こういうタイプの主張をする派であったわけです。

 それに対して改革派の「大衆部」は、「そんな基準の高いことを言っていたらみんな救われませんよ」ということで、在家信徒でも守れるように戒律を緩和することを主張しました。そして、自分が解脱することよりも一切衆生を救うことがもっと重要な目的であると主張したのです。修行をすることよりも、仏様を信じる信仰の方が大事であると主張し、在家信者でも悟りに到達できると説きました。これが大乗仏教の始まりです。

 これは初期の統一教会の構造とちょっと似ているところがあって、昔は統一教会といえば若者の宗教で、「親泣かせ原理運動」と言われたくらい、大学生くらいの若い人たちが入教して、献身しなければ救われないくらいの勢いであったわけです。しかし、結婚していた場合にはなかなか献身できませんから、その後に「壮年壮婦」と呼ばれる層が現れてきて、ホームで共同生活をしながら献身的な生活をしなくても信仰を持てるようにしましょうということになったわけです。それは仏教でいえば「大乗仏教」に近いわけです。
 
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 皆さんはよく、「大乗仏教」と「小乗仏教」という言い方をされると思いますが、この「小乗」というのは、修行を熱心にすることのできるごく少数の者しか救われないという意味で、上座部仏教のことを大乗仏教の人が批判して呼んだ言葉なんですね。つまり、あなたがたの教えでは本当に一握りの人しか救われませんよ、という意味で用いた蔑称ですので、自分たちのことを「小乗仏教」と呼ぶことはないわけです。ですから、これは「上座部仏教」と呼ぶのが正しいわけです。

 イメージとしてはこうなります。「大乗仏教」の人たちは、「私たちはみんな救われる大きな船に乗っているんだ。あの人たちの船は一人しか乗れない小さな船なんだ」と考えていて、「大きな乗り物」と「小さな乗り物」という意味で、バカにして言った言葉が「小乗」という言葉なので、あまりこの言葉は使わない方が良いということです。

 このようにして「根本分裂」によって大乗仏教と上座部仏教に分かれていくわけですが、さらに「密教」と呼ばれるものが出現するようになります。これは基本的にはインドに出現して中国で発展していくわけですが、なぜこの話をするかといえば、この「密教」の伝統がやがて日本にもやって来るからであります。これを相続した二つの大きな宗派が天台宗と真言宗ということになります。

 5世紀ごろになると、大乗仏教は次第にヒンドゥー教がもともと持っていた呪術の要素と混ざっていき、「密教」が生まれることになります。真言宗でいうところの「真言」とは、サンスクリット語でいうマントラのことで、儀式のときにつぶやく「呪文」を意味します。「マントラ」というとオウム真理教を思い出すかもしれませんが、これはもともとヒンドゥー教や仏教にあった呪文のことなんですね。

 密教の特徴の一つは、ヒンドゥー教的な呪術の要素が仏教に取り入れられたということです。これはお釈迦様が禁じたものであったため、本来は原始仏教にはなかったものでした。それが時間とともに入り込んできたということです。二つ目の特徴は、神秘主義と秘密主義です。例えば、曼荼羅の前で印を結びますが、これを「身密」と言います。心に大日如来を念じることを「意密」と言います。そして、口に真言を称えることを「口密」と言います。これらを合わせて「三密の行」と言い、それによって大日如来と一体化し、現在の身体のままで成仏できると教えました。これを「即身成仏」と言います。これはいわゆるミイラになる即身仏とは意味が違います。肉体を持ったままで成仏できるという意味です。これらの儀式は師から弟子に秘密裏に伝えられたので、「密教」というわけです。

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 密教の三つ目の特徴は象徴主義です。真言宗のお寺に行くと、必ずこの二つの曼荼羅がかかっています。左側が「金剛界曼荼羅」で、右側が「胎蔵界曼荼羅」で、仏を中心とする宇宙を象徴的に表したものです。こういう神秘的な仏教が出現するようになるわけです。

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