『生書』を読む25


第七章 道場の発足の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第25回目である。前回から「第七章 道場の発足」の内容に入った。前回は大神様のカリスマと天照皇大神宮教のコスモロジーについて解説したが、今回は救済論を中心に論じることにする。天照皇大神宮教のコスモロジーによれば、世界は地上界と霊界の二重構造になっており、霊界は地上界に対して影響を与えている。霊界には悪霊が充満しているため、それが地上人に与える影響は悪なるものがほとんどである。その影響を断ち切ってあげることが救済(済度)であり、それをすることで人々の間にも世界にも平和が訪れる。それをなすことが自分の使命であるというのが大神様の教えの根幹である。

 大神様がこの頃に行っていたことは、集まってきた人々の背後を見て、憑いている悪霊を落としてやったり、悪い因縁を切ってあげたりすることであった。するとその結果、病気が治ったりなどの奇跡的な出来事が起きた。これは外形的に見ればシャーマンや巫女の活動に似ている。それで当時の人々は大神様のことを八卦見や祈祷師、あるいは病気直しの「はやり神様」のように思ってお参りするようになったという。まだ戦後間もないこともあって、前線の息子や主人の安否を尋ねに来る人も多かったという。

 病気を治してもらいたいと思ってくる人に対しては、大神様は一人一人のために祈っては、その原因となる悪霊を払ってあげた。するとその場でけろりと病気が治ったので、評判が評判を呼んで多くの人々が集まるようになった。悪霊といっても死んだ人とは限らず、生霊がついていることが原因で病気になることもあるという。生霊とは人の思いであり、誰かの悪い思いが他人に影響を与えるということだ。死んだ人の霊が悪霊となって病気になるケースは、たいていは先祖の因縁であり、家計の中に不成仏の人がいると起こる現象であると大神様は説く。こうした考え方自体は、日本の宗教伝統の中に深く根差したものであると同時に、日本の新宗教の教えの中にも幅広く見られるものである。

 日本の新宗教の中には「先祖の因縁」を説くものが多い。天照皇大神宮教のほかにも、霊友会、大本教、真如苑、解脱会、世界真光文明教団、阿含宗、GLAなどが同様のことを教えている。これらの教団は多くの場合、宇宙を目に見えるこの世界すなわち現界と、目に見えない神や霊の世界すなわち霊界の二重構造からなると考え、それら二つの世界の間には密接な交流影響関係があるとしている。すなわち現界で生起するさまざまな事象は、実はしばしば目に見えない霊界にその原因があるのであり、その働きは「守護霊」や「守護神」などによる加護の働きだけにはとどまらず、「悪霊」や「怨霊」などによって悪影響が及ぼされることもあるととらえられている。むしろ実際に霊界の影響がクローズ・アップされるのは、苦難や不幸の原因について説明するときの方が多いくらいである。

 この場合、現界に生きる人間に対して影響を及ぼす霊は、その人と何らかの縁があると考えられるケースが多い。したがって、血縁(親や先祖)、地縁(家や家敷)、その他の個人的な縁を介して、その人と何らかのつながり(因縁)のある霊が、その人に大きな影響を及ぼすということになる。このうち特に重視され、しばしば言及されるのはやはり血縁者(親や先祖)の霊的影響である。そしてこれらの新宗教にはこのような悪因縁を除去するために、除霊や浄霊の儀礼を行うものが多く、それは「先祖供養」(霊友会系教団)、「慰霊」(松緑神道大和山)など、さまざまな呼び方をされているが、天照皇大神宮教においてはそれを「悪霊済度」と呼ぶのである。

 大神様は基本的に救いを求めて集まった人々の「悪い因縁」を切ってあげたが、誰でも彼でも無条件に切ってあげたわけではない。因縁を切るのは一つの目的があったのである。それはその人を神行に導き、神国の建設のために働くことができるようにするためであった。そのことを示しているエピソードが以下である。
「ある者は『私の因縁を切ってください。』と願い出た。すると、『わしは、因縁を切るのが商売じゃあない。神国のお役に立つ人の足手まといにならぬようにと、因縁切るのが役座の腕じゃ。まず、神国のためなら裸一貫、いつ死んでも惜しくない肚をつくれ。そしたらお前の因縁切っちゃろう。』と。」(p.180)

 この他にも、「これを御縁にしっかり家内揃って神行しなさい。そしたら、お前の家の因縁が切れるから。」(p.178)とか、「お前は相当肚ができたから因縁を切ってやろう。」(p.179-180)といった発言もあり、要するに大神様が因縁を切ったり病気を治してあげるのはきっかけに過ぎず、神行によって救済に至る道を直くするためのものであることがうかがえる。

 こうした病気直しは教祖の働きの中でも典型的なものである。『新約聖書』の中にも、イエス・キリストが病気の者や悪霊憑きの者を癒した話がたくさん出てくる。Wikipediaで整理されているものを列挙すれば以下のようになるが、複数の福音書に重複して登場するストーリを一つにまとめて数えても、23回はこうした奇跡を行っていることになる。
・安息日の会堂で汚れた霊に取りつかれた男を癒やす。(マルコ 1:21、ルカ 4:31)
・ペトロの家で彼の義理の母の病気と大勢の病気を癒やし、多くの悪霊を追い出す。(マタイ 8:14、マルコ 1:29、ルカ 4:38)
・ガリラヤでおびただしい民衆の病気、苦しみ、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、あらゆる病人が癒やされる。(マタイ 4:23、ルカ 6:17)
・重い皮膚病(ハンセン病)を患っている人をいやし清くする。(マルコ 1:40)
・百人隊長の信仰を誉め、彼のしもべの病気を癒やす。(マタイ 8:5、ルカ 7:1)
・ガリラヤのカナで王の役人の息子を癒やす。(ヨハネ 4:43)
・エルサレムのベトザタの池で38年間病気で苦しんでいる人を癒やす。(ヨハネ 5:1)
・カファルナウムで屋根をはがして吊り降ろされた中風を癒す。(マタイ 9:1、マルコ 2:3、ルカ 5:17)
・安息日に会堂で手の萎えた人を癒やす。(マタイ 12:9、マルコ 3:1、ルカ 6:6)
・おびただしい民衆がユダヤ全土から集まり、イエスから力が出て病気を癒やしていたので、群集は皆、イエスに触れようとする。(ルカ 6:17)
・悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒やし、悪霊たちを豚の中に送りこむ。(マタイ 8:28、マルコ 5:1、ルカ 8:26)
・十二年間出血が止まらず苦しんでいた女を癒す。(マタイ 9:18、マルコ 5:25、ルカ 8:40)
・二人の盲人の目を見えるようにする。(マタイ 9:27)
・悪霊に取り付かれて口の利けない人を癒やすとしゃべり始める。(マタイ 9:32)
・ゲネサレトで舟を降りたイエスは、人々が床に乗せて運んでくる病人を癒やす。(マタイ 14:34、マルコ 6:53)
・シリア・フェニキアのギリシャ人の女の信仰を認め、悪霊につかれた娘を癒やす。(マタイ 15:21、マルコ 7:25)
・十八年間、病の霊のために腰が曲がったままの婦人を癒やす。(ルカ 13:10)
・安息日にファリサイ派のある議員の家に入り、水腫の人を癒やす。(ルカ 14:1)
・ガリラヤで耳が聞こえず舌の回らない人をしゃべれるようにする。(マルコ 7:32)
・イエスはベトサイダで盲人の目を見えるようにする。(マルコ 8:22)
・汚れた霊につかれた子供を癒やす。(マルコ 9:17)
・エルサレムにのぼる途中の村で重い皮膚病(ハンセン病)の人を清くする。(ルカ 17:11)
・エリコの近くの盲人バルティマイの目を見えるようにする。(マタイ 20:29、マルコ 10:46、ルカ 18:35))
・エルサレムで生まれつきの盲人の目を見えるようにする。(ヨハネ 9:1)

 イエスがこれらの奇跡を使った理由は、彼自身が「もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう。」(ヨハネ10:37~38)と語っているように、人々に自分をメシヤとして受け入れてもらうためであった。ここでも病気直しや悪霊を払うことそのものが目的なのではなく、信仰に至ることが本質であり、そのためのきっかけとして奇跡を行っていることが分かる。その意味で、大神様とイエス様の行った病気なおしや悪霊の処理は同じ目的で行われていたことになる。これらは、教祖が直接働きかけて人々の悪霊を追い出したり因縁を切ってあげたりするというという点が特徴となる。

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