『生書』を読む26


第七章 道場の発足の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第26回目である。第24回から「第七章 道場の発足」の内容に入った。前回は天照皇大神宮教の救済論について論じ、病気を治したり悪霊を追い出したりする奇跡に関して、大神様とイエス・キリストの類似性を紹介した。その共通点は、教祖が直接働きかけて人々の悪霊を追い出したり因縁を切ってあげたりすることにあった。そしてそれによって病気が治るなどの奇跡的な出来事が起こっている。人々はこのことを通じて、教祖の人並外れた力を悟り、信仰を受け入れるようになるのである。ところが、家庭連合の文鮮明師においては、これに類似した病気治しや悪霊退治にまつわるような話がほとんどないのである。こうした話は文鮮明師の自叙伝にも出てこないし、修練会などで語られる「主の路程」の講義の中にもほとんど登場しない。

 だからと言って、文鮮明師の生涯が平凡なものであったということを言っているのではない。文鮮明師の生涯は多くの苦難や試練に満ちた波乱万丈の物語であり、九死に一生を得たという意味ではまさに奇跡的な出来事も数多く起こっている。また、人々が文鮮明師との出会いに前後して不思議な夢を見たり、宗教的な体験をしたという証しも多数あり、それらが信仰の動機となることもある。しかし一方で、文鮮明師が人々に直接働きかけて悪霊を追い出したり、その人の過去の因縁を切ってあげたことによって、病気が治ったというような奇跡譚はほとんど存在しないのである。これには、家庭連合の救済論が深く関係していると思われる。

 文鮮明師の教えの核心は、人類の罪の清算と救済は奇跡によってなされるものではなく、蕩減復帰の原理に従ってなされるというものである。それではこの「蕩減」とはいかなる意味なのか、『原理講論』の説明に耳を傾けてみることにしよう。
「どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失なったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを『蕩減』というのである。……堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が、再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る或る条件を立てなければならない。(ロマ5:19、コリント前15:21)。堕落人間がこのような条件を立てて、創造本然の位置と状態へと再び戻っていくことを『蕩減復帰』といい、『蕩減復帰』のために立てる条件のことを『蕩減条件』というのである。〔後編・緒論(一)蕩減復帰原理〕

 ではその蕩減条件を立てる主体が誰であるかといえば、それは神でもサタンでもなく、人間なのである。これは、罪の清算の責任は基本的に個々の人間にあるという考え方である。人間は罪を背負っており、血統的な罪のゆえに霊界から悪なる影響を受けることがあるのだが、その罪を清算する方法は、奇跡によって救われるのではなく、人間自身が苦痛を受け、それを甘受することによって、蕩減条件を支払わなければならないのである。したがって、悪い因縁や悪霊の働きは、教祖によって解決してもらうべきものではなく、自分自身の信仰と実践によって清算すべきものなのである。『原理講論』の中で地上の信仰者と悪霊人の関係について語っている部分は、第五章「復活論」における「悪霊人の再臨復活」の説明である。少々長くなるが、その部分を引用してみよう。
「復帰摂理の時代的な恵沢によって、家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏に移行される一人の地上人がいるとしよう。しかし、この人に自分自身、或いはその祖先が犯した或る罪が残っているならば、それに該当する或る蕩減条件を立ててその罪を清算しなければ、種族的な恵沢圏に移ることができなくなっている。このとき、天は悪霊人をして、その罪に対する罰として、この地上人に苦痛を与える業をなさしめる。このようなとき、地上人がその悪霊人の与える苦痛を甘受すれば、これを蕩減条件として、彼は家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏に入ることができるのである。このとき、彼に苦痛を与えた悪霊人も、それに該当する恵沢を受けるようになる。このようにして、復帰摂理は、時代的な恵沢によって、家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏へ、なお一歩進んで民族的なものから、遂には世界的なものへと、だんだんその恵沢の範囲を広めてゆくのである。こうして、新しい時代的な恵沢圏に移るごとに、その摂理を担当してきた人物は、必ずそれ自身とか、或いはその祖先が犯した罪に対する蕩減条件を立てて、それを清算しなければならないのである。また、このような悪霊の業によって、地上人の蕩減条件を立てさせるとき、そこには次のような二つの方法がある。

 第一に、悪霊人をして、直接その地上人に接して悪の業をさせて、その地上人が自ら清算すべき罪に対する蕩減条件を立ててゆく方法である。第二には、その悪霊人が或る地上人に直接働くのと同じ程度の犯罪を行なおうとする、他の地上の悪人に、その悪霊人を再臨させ、この悪人が実体として、その地上人に悪の業をさせることによって、その地上人が自ら清算すべき罪に対する蕩減条件を立ててゆく方法である。

 このようなとき、その地上人が、この悪霊の業を当然のこととして喜んで受け入れれば、彼は自分か或いはその祖先が犯した罪に対する蕩減条件を立てることができるのであるから、その罪を清算し、新しい時代の恵沢圏内に移ることができるのである。このようになれば、悪霊人の業は、天の代わりに地上人の罪に対する審判の行使をした結果になるのである。それ故に、その業によって、この悪霊人も、その地上人と同様な恵沢を受け、新しい時代の恵沢圏に入ることができるのである。」(『原理講論』第5章復活論、第2節復活摂理、(三)霊人に対する復活摂理(3)楽園以外の霊人たちの再臨復活より)

 この記述に従えば、罪の清算のために悪霊人から悪の業を受けたり、地上の人間から悪の業を受けたりして苦しんでいる人に教祖が働きかけて、悪霊を取り除いたり、悪因縁を切ったりしてしまえば、その人は罪を清算する機会を奪われてしまうことになるので、本質的な問題の解決とはならないのである。このような『原理講論』の教えは、救済論においては「自力信仰」の特徴を持っていると言える。だからこそ文鮮明師は、信徒の悪霊を追い出したり病気を治したりすることはしなかったのである。

 ところが、統一教会の歴史において初期の段階では極めて「自力信仰」の特徴を有していた霊界との関係が、途中から「他力信仰」に変化していく現象が起こった。それは清平役事の登場である。清平役事においては、祝福家庭に起こる様々な不幸の原因を、食口たちの体の中に巣食っている悪霊であるとし、それを分立することによって、食口たちを霊障から解放することに救済の中心をおいている。

 清平役事における悪霊分立の意義は、統一原理における罪の概念と結び付けられ、さらには病気の治癒と結び付けられている。すなわち、血統的な罪や連帯的な罪があるので悪霊がついているのであり、それによって病気が引き起こされている。よって、その原因である悪霊を分立し、解放することを通して、血統的な罪が清算され、その霊障である病気も癒されていくという構造を持っているのである。霊障としての病気の中には、胎児の障害や奇形児、アトピーなども含まれており、これらは基本的に悪霊の仕業であるとされている。

 初期の段階における清平役事は、韓鶴子総裁の母親である洪順愛ハルモニ(「大母ニム」と呼ばれる)が、霊能者である金孝南氏に再臨して始まったと信じられている。金孝南氏自身も「訓母ニム」と呼ばれ、信徒たちから絶大な信頼を受けて清平役事を取り仕切っていた。彼女が説いた悪霊分立の方法は「按手」と呼ばれるもので、熱狂的な賛美と拍手をしながら、体の各部位を手で打つというものである。これによって信徒たちの体の中に入っている恨み多き悪霊たちを分立し、霊障から解放してあげようというのである。

 初期の清平役事においては、金孝南氏自身が病気や困難な問題を抱えている教会員たちを直接面接し、特別な按手を施すことによって悪霊を分立するという作業を行っていたという。このような金孝南氏の役割は、韓国の宗教伝統である「ムーダン」と呼ばれる厄払いをする巫女の働きに似ている。ムーダンの役割は基本的に様々な霊障から人々を守ることにあった。清平役事においても、按手によって病気が改善したという証しが多数存在する。

 天照皇大神宮教における大神様の「悪霊済度」は、家庭連合においては教祖である文鮮明師の働きよりも、清平役事における金孝南氏の役割により似ていると言える。文鮮明師は真の父母として信徒たちに祝福を与え、原罪を清算するという形で信徒たちの救済に関わったが、個々の信徒たちにシャーマンやカウンセラーのように対応して悪因縁を切ったり悪霊を追い出したりするということは行わなかった。むしろそうした活動をしたのは清平役事における金孝南氏であったと言えるだろう。

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