書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』91


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第91回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 今回から第六章「四‐二 清平の修練会」に入る。まず「1 清平修錬苑」においては施設としての清平の概要と、そこで行われている修練会の日程をスケジュール表入りで紹介している。これは客観的な記述であり、スケジュール表は天宙清平修練苑公式サイトから取ったものなので、特に間違いは見当たらない。ただ一部、「清平修練会は体力的にきついものと思われる。しかも、そこで加えられる霊界の精神的プレッシャーは相当なものである」(p.289)という彼の評価が、主観的な要素として挿入されている。清平修錬苑はいわゆる宗教的な修行をするための場所なので、そこでの生活が体力的にきついのは禅寺における生活がきついのと同じ意味である。しかし、「霊界の精神的プレッシャーは相当なものである」というのは櫻井氏の勝手な想像にすぎない。

 清平のような外国にある施設で行われる修練会に参加するということは、本人によほど主体的な動機がない限りはあり得ない。参加する意思のない人を国境を越えて連れ込むことなど不可能だからだ。したがって、清平の修練会に参加する人々は基本的に宗教的修行を求めて集まった求道者であり、み言や祈りに対して強い関心を持ってやって来たのである。その人たちにとっては、夜遅くまで説教を聞いたり役事をしたりすることは体力的にはきつくても、精神的には喜びを感じるものなのである。彼らは霊界に関心を持ち、霊的な現象や雰囲気に触れようと求めてやって来た。それを「霊界の精神的プレッシャー」などという受動的な表現にすり替えるところに、櫻井氏の悪意が感じられる。彼は元信者から清平の修練会に関する聞き取りを行ったようであるから、統一教会を相手取って裁判を起こした元信者たちが、清平の修練会も「被害」の一部として悪意を持って描写しようとしたイメージが、彼自身にも感染したのかもしれない。

 続いて「2 先祖解怨式」の解説において櫻井氏は、「統一教会の教えによれば、人間は死後『霊人体』となって霊界に行く。原罪を持ったまま霊人体となった先祖は地獄で永遠の苦しみを受けているのだが、地上にいる子孫の善行により功徳が先祖に転送され、先祖は安らぐのだという。ところが、このことを知らずに功徳を送らなかった人は死後、霊界で先祖の霊たちに責められる。この教えの前半部分は先祖崇拝と混淆した東アジアの仏教や東南アジアの上座仏教に見られる観念である。しかし、後半部分は統一教会独自の論理である。」(p.289-295)と述べている。

 この解説はどこで前半と後半が分かれるのか釈然としないのであるが、少なくとも前半に登場する「原罪」という概念はキリスト教的なものであり、先祖崇拝や仏教には見られないものである。「霊人体」という表現も統一原理に固有の言葉である。むしろ、地上にいる子孫の善行により先祖が安らぐという観念の方が、先祖崇拝と習合した仏教の教えに近いのではないだろうか。功徳が転送されるという考え方も、「廻向」という仏教的概念である。櫻井氏による宗教的言説の概念整理はどこか混乱しているように思われる。

 次に櫻井氏は先祖解怨がただではないことを批判的に記述するが、先祖供養にお金がかかるのは伝統仏教でも新宗教でも同様である。金額の多寡は、その人がどれだけ真剣にそれに取り組もうとしているかという姿勢の表れであると言えよう。

 清平の修練会が120代から210代までの先祖解怨を勧めているというのは事実である。この数字が櫻井氏には荒唐無稽に思えるらしく、以下のような批判が加えられる。「120代遡るというのは、一世代30年として3600年前であり、日本においては縄文末期、弥生時代初期に相当する時代であり、日韓両民族の氏族は血縁を共にしていた可能性すらある。先祖をこれほどまでに系譜でたどるというのは、日本では皇族であっても非歴史時代を想定しなければ不可能だろう。一般市民の場合には十数代たどることができるだけでも相当の名家である。しかし、統一教会の信者たちは先祖解恩の教えをそのままに受け取っている。」(p.295)

 たしかに一般市民が自分の先祖に関する事実を調べることができる範囲は通常は4~5代くらい前までであろう。私も除籍謄本を取り寄せて先祖の記録を遡ったことがあるが、名前が判明したのは高祖父(4代前)までであった。しかし、清平の先祖解怨では先祖に関する具体的な事実が分からなければ解怨ができないと教えているわけではない。血統がつながって私という生命が存在する以上、名前が分からなくても120代前や210代前の先祖は少なくとも存在しているはずであるから、その人たちの霊を解放しようという話である。これは信仰の論理であるため、櫻井氏のような冷めた分析を信者たちはしないのである。

 そもそも、ヒンドゥー教や仏教にはカルマ(業)の刈り取りという考え方があり、それは自分の血統的な先祖ではなく、魂が前世において行った行為の代償を現世における自分が支払わなければならないという意味である。自分の魂が前世においてどんな存在であり、どんな行為を行ったのかということは、自分の先祖が何をしたということ以上に分からないことであり、科学的で客観的な知識として知ることはほぼ不可能な事柄であるにもかかわらず、ヒンドゥー教徒や仏教徒はその教えをそのままに受け取っている。さらにキリスト教においては、3600年前どころか6000年も前に人類の祖先が罪を犯したという話を、少なくとも根本主義や福音主義の信徒たちは文字通りに受け入れ、それが「原罪」として自分に受け継がれていると信じているのである。単純な比較によれば、これらの信仰は清平の先祖解恩の信仰以上に荒唐無稽であるとも言える。こうした宗教的教説を信じる者の心において、自己の魂の前世やアダムとエバの存在が科学的で合理的な思考の対象となることはない。しかし、それと同じことを櫻井氏は清平の先祖解怨に対して行っているのである。彼の批判がいかに筋違いの「批判の為の批判」であるかが分かるだろう。

 櫻井氏は、「統一教会の世界観では、霊界と現実世界があり、相互に交流可能だし、霊人が地上人に影響力を行使することも可能であれば、地上の人間が霊人となった先祖を供養により慰撫することもできるという。信者はこの世において統一教会に入信して祝福を受け、真の家庭を築かなければ救済に与れないし、統一教会の教えを受けずに亡くなった先祖達は、死後において統一教会の研修と祝福を受けて真の家庭を築かなければならない。どちらの場合も、信者が統一教会にしかるべき金額の献金を納入しなければことが進まないのだ」(p.296)と述べている。これは「地獄の沙汰も金次第」といったイメージであり、統一教会の救済観をあたかも特異なものであるかのように描写している。

 しかし、これに類似する救済観を持つ宗教は、日本の新宗教の中に多くの例を見いだすことができる。具体的に言えば、霊友会、大本教、真如苑、解脱会、天照皇大神宮教、世界真光文明教団、阿含宗、GLAなどを挙げることができるであろう。これらの教団は多くの場合、宇宙を目に見えるこの世界すなわち現界と、目に見えない神や霊の世界すなわち霊界の二重構造からなると考え、それら二つの世界の間には密接な交流影響関係があるとしている。すなわち現界で生起するさまざまな事象は、実はしばしば目に見えない霊界にその原因があるのであり、その働きは「守護霊」や「守護神」などによる加護の働きだけにはとどまらず、「悪霊」や「怨霊」などによって悪影響が及ぼされることもあるととらえられている。むしろ実際に霊界の影響がクローズ・アップされるのは、苦難や不幸の原因について説明するときの方が多いくらいである。

 この場合、現界に生きる人間に対して影響を及ぼす霊は、その人と何らかの縁があると考えられるケースが多い。したがって、血縁(親や先祖)、地縁(家や家敷)、その他の個人的な縁を介して、その人と何らかのつながり(因縁)のある霊が、その人に大きな影響を及ぼすということになる。このうち特に重視され、しばしば言及されるのはやはり血縁者(親や先祖)の霊的影響である。そしてこれらの新宗教にはこのような悪因縁を除去するために、除霊や浄霊の儀礼を行うものが多く、それは「先祖供養」(霊友会系教団)、「慰霊」(松緑神道大和山)、「悪霊済度」(天照皇大神宮教)など、さまざまな呼び方をされているが、いずれも信者の基本的実践として重要な位置を占めていることには変わりがない。

 日本の宗教伝統を概観してみるときに、「先祖の因縁」という宗教概念が、極めて広範囲に人々の間に広まっていたことは疑う余地がなく、こうした信仰を持つ人々からすれば、清平において行われている先祖解恩の教えや儀式は、やり方に違いこそあれ、基本的には同じ世界観に基づいていると理解することが可能であろう。清平の先祖解恩は、とりわけ日本人の統一教会信者に人気があるという。そこには明らかな文化的親和性があるからこそ、多くの日本人がわざわざ海を渡ってまで研修会に参加するのである。

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