『生書』を読む07


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第7回目である。前回は大神様が姑のタケさんから様々な試練を受けながらも、最終的には屈服させた歩みを、統一原理における「長子権復帰」や「サタン屈服路程」と比較して解説した。これはある意味で歴史的な義人、聖人、教祖たちが歩んだ典型路程であり、大神様も家庭的な次元でその道を行ったのであると理解できる。

 『生書』は、救世主になられる前のその後の大神様の歩みを簡潔に記しているが、その姿は「模範的な日本国民」と言ってよいものであった。まず個人においては大変信心深い人であった。北村家は元来真宗であったが、大神様はその寺の世話をよくし、仏壇の前で毎日念仏を唱える生活をしたという。次に家庭においては模範的な親であった。一人息子の義人氏に対しては、甘やかすことなくしっかりとした教育を行った。さらに大神様には進取の気性があったようで、早くから自転車に乗り、料理や洗濯の新しい知識を取り入れ、発動機をはじめとする農業の新しい技術も積極的に取り入れていたようである。古い伝統に縛られず新しいことに挑戦していくのは、一つの教祖的な気質であると言えよう。

 『生書』は大神様が主婦として歩んでいた時代に、満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日支事変などが起こり、日本が戦争の泥沼に突入していったことを伝えているが、あくまでも客観的な時代背景として伝えているだけであって、戦争や当時の日本政府のあり方に対する批判的なトーンは存在しない。大神様は反戦運動や左翼思想とは無縁だったようである。むしろ、お国のために熱心に働く献身的な国民であったと言える。

 ここで『生書』は「新体制運動」に触れている。この運動は、昭和15(1940)年に近衛文麿を中心に展開された、挙国一致の戦時体制の確立を目的とした国民組織運動であり、日本型のファシズム体制を確立させた運動として、批判的に語られることもある。しかし、大神様はこの運動によって推進された隣組の活動や婦人会の活動に熱心に参加している。大神様は西田布施の婦人会の副支部長として、婦人会の仕事を積極的に行い、町の顧問や参事にもなるくらいに人望が厚かったという。これは家庭のみならず、地域社会においても「長子権を復帰」していたということである。
「この頃、教祖はただお国のために、純良なる一日本国民として、婦人会の役員として、本当に献身的に銃後の諸活動を率先してやられたのである」(p.26)と書かれているように、日本が突き進んでいった軍国主義への道に対して、疑問を抱いたり、反対したりすることはなかったようである。このことから、大神様は「肚の神様」から啓示を受ける以前には、何か特別な思想的傾向を持っていたわけではなく、当時としてはごく普通の愛国的な婦人であったことことが分かる。

 当時の大神様には思想性こそなかったものの、個人の性格においては、教祖としての片鱗が窺えるところが多い。筋の通った有言実行の人であり、偉い人に対しても臆することなく、正義感が強く、不正に対しては妥協しない性格であったという。この辺の記述は、文鮮明師の幼少期の性格とそっくりである。

 『生書』は元獣医総監の藤井中将の大神様に対する評価として、「もし、あの人が男に生れておれば、総理大臣か、元帥か、いずれにしても最高の地位につく格の人物だ。」という言葉を紹介している。このくだりも、幼少期の文鮮明師に対する村人の評価と似たものがある。

 『生書』は「主婦として」の最後の部分を以下のように締めくくっている。
「飽くまで国家観念が強く、正義感の強い、実行力に満ちあふれた男勝りの女性だった。この一日本女性が、太平洋戦争を通じいかなる人物になられ、敗戦という現実の下に、いかに飛躍的な足跡を社会、人心の上にいたされるであろうか。」(p.30)

 この文章から分かるのは、大神様が教祖として立ち上がっていくプロセスにおいて、日本の国が戦争に負けたことが重要な役割を果たしているということだ。国家観念が強く、お国のために滅私奉公してきた正義感の強い女性が、敗戦という現実に直面したとき、これまで信じてきたことが崩れ去っていくという、何か重要な内面の転換を迫られるような出来事となったことは確かだろう。そうした絶望感、喪失感を超えて、新しい正義を探し求めていく中で、教祖として立ち上がっていったのではないかと推察される。

 島田裕巳は、著書『日本の10大新宗教』の中で、天照皇大神宮教は極めて戦後的な新宗教であったと解説している。「戦前においては天皇は現人神とされ、崇拝の対象となっていた。その現人神が支配する日本という国は、『神国』とされ、神国の行う戦争は『聖戦』と位置づけられた。ところが、神国は聖戦に敗れ、一九四六年一月一日、天皇は『人間宣言』を行った。突然、神国の中心にあった天皇が神の座を降りることで、そこに空白が生まれた。サヨの肚に宿った神が、天照皇大神宮を称したのも、その空白を埋めようとしたからである。」(p.90-91)「日本の敗戦と天皇の人間宣言という出来事が起こることで、そこに生じた精神的な空白、現人神の喪失という事態を補う方向で、その宗教活動を先鋭化させた。天皇に代わって権力を奪取しようとしたわけではなかったが、空白となった現人神の座を、生き神として継承しようとした。」(p.102)

 島田の解釈が教団の自己理解と一致するものなのかどうかは分からないが、少なくとも敗戦という出来事が大神様の内面に大きな影響を与え、天照皇大神宮教を立ち上げていく背景となったことは間違いないであろう。

 それでは文鮮明師にとって「愛国心」や「終戦」はどのような意味を持っていたのであろうか? 大神様が日本人として、祖国に対する純粋な愛国心を持っていたのと比較すると、文鮮明師の愛国心はより複雑である。文師が誕生した1920年当時、韓国は既に日本に併合されていたので、文師は法的には日本人であった。しかしながら、文師の愛国心は日本に向かっていたのではない。日本によって蹂躙され、植民地化された韓民族に対する「民族愛」として存在していたのである。どんなに国を愛そうと思っても、それは国としての体をなしていないものであり、やがて日本から独立するであろうまだ目に見ぬ祖国に対する愛国心という複雑なものであった。

 文鮮明師は、1935年4月17日にイエス・キリストから啓示を受け、イエスが成し遂げられなかった仕事を代わりに成し遂げる決意をしている。これが文鮮明師の「召命体験」であり、それは終戦よりも10年も前の出来事である。したがって、終戦そのものが文鮮明師が教祖として立ち上がっていくための内的な刷新をもたらしたのではなく、そのはるか以前から文師はメシヤとしての自覚を持っていたことになる。終戦は、神の召命や個人の内的覚醒よりもむしろ、神のみ旨を成就する上での環境的要因を整える出来事として理解されているのである。

 文鮮明師にとって韓国を日本から独立させることは、神のみ旨を進める上で重要なプロセスであると位置づけられていた。そのため、文師は日本の早稲田大学に留学していた時代に韓国人留学生たちと共に抗日独立運動をしていたし、そのことのゆえに戸塚警察署で取り調べを受けた。さらに韓国に帰国した後も、京畿道警察部で取り調べを受け、日本留学時代の抗日運動の活動内容と関連者の名を吐けと迫られ、拷問までされている。その意味では文鮮明師にとって日本は「怨讐国家」であり、そこから独立すべき「韓民族の国」に対する愛国心に突き動かされていたことになる。

 したがって韓国人である文師の視点からは、第二次世界大戦で日本が敗戦したことは、大神様とは全く逆の意味を持っていた。日本人にとって終戦は敗北であり、挫折であり、天皇の人間宣言は現人神の喪失であったが、韓国人にとってそれは日本の植民地支配からの解放であり、「光複」(奪われた主権を取り戻すこと)であった。したがって、日本の敗戦と植民地支配の終焉は、悪の時代の終わりと新しい希望の時代の到来という意味を持っていたのである。

 『原理講論』においては、韓国が乙巳保護条約から第二次大戦の終了まで40年間にわたって日本の植民地支配を受けたのは、古代イスラエル民族が40数に該当する苦難の道を歩んだのと同様に、韓民族が選民となるために必要な蕩減条件であったととらえている。韓民族が40年にわたる苦役路程を終了したのが1945年8月15日であるということは、そこから新しい神の歴史が出発するということになるのである。

 このように、文鮮明師にとっての「愛国心」や「終戦」は、大神様とはほぼ真逆の意味を持っていたということが分かる。

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