『生書』を読む08


第二編 救世主になられるまで 第三章 火事と日参詣で

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第8回目である。今回から「第二編 救世主になられるまで」の内容に入り、その中の「第三章 火事と日参詣で」の内容を扱う。それまでは働き者で人望が厚かったとはいえ、ごく普通の愛国的な婦人であった大神様が、宗教の世界に目覚めていく過程がこれから描かれるわけである。と言っても、大神様はもともと信心深い人物であり、寺の世話をよくし、念仏を唱える生活を送っていた。しかしそれはあくまでも信徒としての行であり、教祖として教えを説いていたわけではない。それはまだ「肚の神様」との決定的な出会い、神託というものに触れていなかったからである。

 大神様を神体験へと導くきっかけとなった出来事は、火事であった。それは昭和17年7月22日の夜明け前のことであった。大神様が気付いたときには離れ屋敷が物凄い勢いで炎上しており、手遅れの状態であった。これを見た大神様は清之進氏に、「もうだめだ、お父ちゃん。裸で生まれたんじゃから、裸になると思やあよい。」(p.33)と語ったとされる。なんとも潔い発言だが、この言葉は旧約聖書に出てくるヨブの言葉によく似ている。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:20)

 これはヨブの身に災難が起きたときの言葉であり、状況とその受けとめ方が非常によく似ているだけでなく、言葉の使い方も似ている。私はかねてから天照皇大神宮教にはキリスト教の影響があるのではないかと思ってきたが、ここにもその片鱗を見ることができる。

 幸いにも火事は離れ屋敷だけに留まり、母屋は無事であったが、このことが大神様に与えた衝撃は大きかった。それは何よりも先祖から受け継いだ財を焼いてしまったということと、世間を騒がせてしまったことに対する責任感からくるものであった。こうして悶々としていた大神様が相談に行ったのが、平井憲龍という加持祈祷師であった。この人は伏見官幣大社稲荷神宮付属講社余田支部という小さな祠で加持祈祷を行う人であった。系列としては京都にある伏見稲荷大社に属することになるが、これはおそらく政府の宗教政策上どこかの傘下に入らなければ活動できなかったという事情によるものだと思われる。本質的には占いや呪術という性格のものだが、表向きは稲荷神社に属していたということだ。彼は「その法力が当世第一という町の評判」だったということであるから、占いが良く当たるということで大神様も相談に行ったのであろう。もとより日本は神仏習合の国であるから、家の信仰が真宗であるからと言って、稲荷神社の祈祷師に相談に行くことに抵抗はなかったであろう。むしろ、占いが当たることの方が重要であった。

 平井氏は、今回の火事の原因は放火であり、北村家に恨みを持つ近所の人が犯人であるという神のお告げを伝えた。そして「その犯人は、あなたが一年間月参りをされたら出てくる」(p.36)とも言ったのである。正義感と負けん気が強い大神様がこれを聞いて思ったのは、「神仏に掛けて、必ず事の黒白を明らかにしよう」(p.36)ということであった。そのときから大神様は氏神様の八幡宮に丑の刻の日参詣りを始められた。

 火事と日参詣でに関する物語のポイントは「動機の転換」である。平井氏から家事が放火によるものであると告げられたときに大神様の胸に去来した思いは、正義感からくる悪に対する裁きであっただろう。放火は重大な犯罪であり、それによって多くの財産が失われたわけであるから、犯人はそれに対する罰を受けなければならない。生来正義感が強く、善悪をはっきりさせなければ気が済まない性格の大神様は、犯人を白日の下にさらし、裁きを受けさせなければならないと思ったのである。「早く放火の黒白をつけ、あの焼けたるあらゆる物におわびをしたい、また今の世の人のいましめとしたい。」(p.39)という言葉からも、犯人が見つかり、正当な裁きを受けることによって決着をつけたいという思いがあったことが分かる。同時に火事の原因が自分の火の不始末によるものではないことを明らかにして名誉を回復したいという思いもあったであろう。犯人に対して損害賠償を請求しようと思っていたかどうかは、『生書』には記されてないので分からない。いずれにしても、日参詣りを行った動機は犯人探しという半ば世俗的なものであった。

 ところが修行を行う中で大神様の心境は次第に変化していく。一言でいえば、犯人探しという特定の目的のために行っていたお参りが、次第にそれ自体に喜びを感じるようになっていったのである。その頃の大神様の日記には行に対する感想が記されている。
「なんだか真のしんこうというものの味がわかったような感じがした。心がすがすがしく、あらゆるものが、みな自分の味方であるような感じがして、とても楽しく、なんだか人の世界からぬけ出て、神の世界にでも登るような、なんともいえない新しい気持ち一ぱいで、帰りはお稲荷様にお参りして帰った」(p.37-38)
「この頃は水をかぶる度ごとに、身も心も清らかになり、すがすがしいよい気持、世の中のこと何一つ思いがなくなって、ただ神様におちかい申す、この身体も心も清らかになれ、という気持ばかりが一ぱいで、なんの余念もなくなった。…夢のように、ぎいっと、神前の戸の開くような音が聞こえた、と思うと不思議なお知らせがあったような思いがした、と思うと我に帰ったような気になった。」(p.38-39)

 このように日記の中では大神様が丑の刻の日参詣りの中でなんとも言えない歓喜を感じるようになり、それが増していく様子が描かれている。一方でこうした行を一年間続けても、犯人は出てこず、放火の黒白はつかなかった。こうした中で、大神様の関心は犯人探しから宗教的な事柄にシフトしていくのである。それは平井氏の影響によるものでもあった。『生書』には以下のように書かれている。
「一方、教祖は平井氏に接せされて、霊界のことに異常の関心を寄せられるようになった。教祖は火事があった前から、祖先は生きたものとして接しられたが、平井氏のところに行かれ始めてから、霊界の実在をつくづく感じて、それを徹底的に探求しようと志され、暇を見ては平井氏のところに通われるのであった。」(p.41)

 最終的には行の「動機の転換」は、放火の犯人を許すことによって訪れた。当時田布施町の隣町の平生署に清水嵐という警部補があり、この人物は大神様から子供のようにかわいがられていたのだが、彼があるときふと「放火の犯人を許されたら」と言ったのである。これをきっかけに、行の動機は完全に転換された。
「教祖は、まだどこか頭の中に残っていた放火犯人のこともきれいに捨てられ、自分がこれだけ行ができたのも、帰するところ火事があったればこそと、放火犯人に対しての恨みを感謝に変えられたのである。そして丑の刻参りも、水行も、ますます一心に続けられた。」(p.43)

 姑のタケさんから受けた酷い嫁いびりを修行にかえてしまわれたように、放火によって財産を失うというネガティブな出来事も、大神様は自分が行を始めるきっかけになったと意味づけて、感謝にかえてしまった。これはことわざで言えば「禍を転じて福と為す」ということになろうが、宗教の世界ではよくある発想である。むしろ、恨みを恨みのまま残しておいたのでは教祖のストーリーとはなりえないであろう。人間の悪なる所業も、最終的には見えざる神の手によるものであると昇華させてこそ、宗教的なストーリーになるのである。

 結果的には、火事の一件は大神様に修行の機会を与え、教祖としての霊性を磨くためのプロセスとなった。修行を行う中で大神様の動機は転換され、一心不乱に神を求める方向へと精神を収斂させていったのである。

 このころ、平井氏は大神様のことでご神託を得ている。昭和19年3月のことである。
「北村さんは、この講が始まって以来ない不思議な方じゃ。天地いっさいの神が天降られて、この世から生き神になられる。今まで因縁が切れていなかったので、世のため人のために尽くされたことが、かえって仇となり、人から恨まれるようなことが多かったが、今度はそれが一度に花を咲かせ実を結び、みんなから慕われる方になられる。」(p.44-45)

 これに対して、大神様は即座に「わしはそんな者になろうとして、行をしておるのではない。」(p.45)と答えられている。大神様自身にはまだ自覚がなくとも、平井氏が神からの啓示を受けて、大神様がやがてなるべきものについて予言をするという形になっているのである。大神様が「肚の神様」と出会うのは、それからもう少し後のことであった。

 この平井氏と大神様の関係は新約聖書における洗礼ヨハネとイエス・キリストの関係に似ている。イエスは一度はヨハネのもとに行き、バプテスマを受けるが、これはイエスがヨハネに弟子入りするのと同じような行為である。しかしヨハネは後にイエスについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりすぐれたかたである。わたしよりも先におられたかたである』とわたしが言ったのは、この人のことである。」(ヨハネ1:29-30)と語っている。平井氏もまた、一時的には大神様を指導する立場に立ったが、後には大神様を証しする立場に立ったのである。

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