櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第207回目である。
本書全体に対する評価のまとめ(最終回)
先回で本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に対する批判的分析を終えたので、今回は櫻井氏の研究と中西氏の研究の関係、および本書に対する総合的な評価を行うことにする。2016年3月16日に開始して以来、途中何度かの休憩を挟んで、4年以上の歳月を費やして書き続けたこのシリーズも、今回が最終回となる。
初めに、研究の前提となる櫻井義秀氏と中西尋子氏の「立場性」の問題に触れておきたい。本書は客観的で価値中立的な統一教会の研究ではなく、批判的立場からの研究である。しかし、両者ともに最初からそうだったわけではなく、もともとは客観的で価値中立的な研究をしていたのだが、途中から批判的立場に「転向」したのである。そしてその理由は両者ともに「統一教会を利するような研究結果を発表するとは何事か」というバッシングを受けたことが原因である。
櫻井氏は1996年に北海道社会学会の機関紙『現代社会学研究』に「オウム真理教現象の記述を巡る一考察ーーマインド・コントロール言説の批判的検討」という論文を発表しているが、その内容は基本的に「マインド・コントロール理論」を否定するものであった。これが札幌における統一教会を相手取った「青春を返せ」裁判の弁護団から、「あなたの論文が統一教会擁護に使われている」と批判されたため、その影響で立場を変えたのである。これは本書における天地正教に関する記述にも影響を及ぼしている。
一方、中西氏は韓国で別テーマの研究をしていときに偶然、農村に嫁いだ統一教会の日本人女性に出会った。彼女はその女性たちに好感を持ち、礼拝に参加したり、インタビューをしながら研究を続け、その成果を「宗教と社会」学会で、「『地上天国』建設のための結婚:ある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から」と題する論文として発表した。しかし、その会合に出席していた統一教会に反対する弁護士たちから「統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか」と徹底的に糾弾され、その圧力に屈してしまったのである。
このように、いまの日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、たとえその内容が客観的で中立的なものであったとしても、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられ、批判的な論調に「転向」させられてしまう。要するに、これは純粋な「学問的正しさ」の問題ではなく、「政治的正しさ」の問題なのである。
こうした宗教学者の「転向」は、オウム真理教事件のトラウマとして理解することができる。オウム事件が起きたとき、新宗教に対する共感的な理解を試みた一部の宗教学者たちが、「オウムの中に潜む闇を見抜くことができなかった」と批判されるようになり、島田裕巳氏はそのことが原因で日本女子大学を退職せざるを得なくなった。オウム事件が日本の新宗教研究に残したトラウマはあまりにも大きく、いまだにそこから立ち直っていないと言っても過言でないほどである。それと同様の圧力が、統一教会を研究する際にも働くということだ。
櫻井氏や中西氏が恐怖心を感じているのは、統一教会に対してではなく、統一教会反対派から「統一教会に対して好意的すぎる」「統一教会に有利な内容を書いた」というバッシングを受けることである。社会的影響力を持つ統一教会反対派に睨まれたら、学者生命が危機にさらされる。それ故に彼らは、統一教会反対派とあえて癒着することによって、安全圏から統一教会を攻撃するという研究方法を選択したのである。これはある意味でオウム真理教事件以降の新宗教研究者が取るようになった、一つの処世術であると言ってよいであろう。
本研究における櫻井氏の「立場性」は、自分が行った調査の主たる対象が「脱会カウンセリングを受けた脱会者」であり、自然脱会者を除外している理由を述べている部分に実に鮮明に表れている。
「自然脱会の場合、統一教会への思いは両義的であることが多く、再び統一教会へ戻る元信者もいるので、統一教会に対して批判的な立場から調査を行う筆者とは利害関係において合致しないと思われる。」(p.199)
これは驚くべき発言である。櫻井氏は統一教会について調査をするときに、自分と利害関係において一致しない対象は排除するというのである。はたしてこれが学問的な調査と言えるであろうか。櫻井氏の調査対象としては、統一教会に対して両義的な思いを持っている人は失格であり、批判的な思いをもっている人しか調査しないというのであるから、これはまさに「結論ありき」の調査であると言える。元信者が統一教会に対して両義的な思いを持っているのであれば、それを事実通りに記述するのが学問的な調査というものではないだろうか。最初から偏ったデータを求めて調査しているという点で、もはやこれはイデオロギー的な調査か、プロパガンダ用の調査としか言いようがない。
次に、櫻井氏の研究の方法論的な問題点をまとめることにする。櫻井氏の研究の主要な情報源は、統一教会に反対している牧師、脱会カウンセラー、弁護士などのネットワークである。そこは元信者の宝庫であり、「青春を返せ」裁判のための陳述書や証拠書類という形で資料は山のようにある。極めて包括的な資料がいとも簡単に手に入り、インタビュー対象も探さなくても紹介してもらえるのである。しかし、それらは教会への入信を後悔している元信者の証言という点で強いネガティブ・バイアスがかかっている可能性と、裁判に勝つために脚色された可能性の高い、偏った資料である。しかも、札幌「青春を返せ」裁判の原告らは、そのほとんどが物理的な拘束下で説得を受けて教会を脱会した者たちであった。これが櫻井氏の研究における最も重大な方法論的問題である。
櫻井氏の研究方法の欠陥は、『ムーニーの成り立ち』の著者であるアイリーン・バーカー博士の研究方法と比較することによって明らかになる。バーカー博士は統一教会の主催する修練会に自ら参加したり、統一教会のセンターに寝泊まりしながら組織のリーダーやメンバーの生活を直接観察するなどの「参与観察」と、現役信者のインタビューを行っているが、櫻井氏はテキストの閲覧と元信者のインタビューしか行っていない。「統一教会の修練会とはどんなものか」を分析するときに、実際に参与観察を行った研究者と、過去に参加した人に対してインタビューを行っただけの研究者では、経験の直接性において雲泥の差がある。信仰というものを「生きた経験」であるととらえた場合、実際に人が伝道され、回心していく現場に立ち会っているか否か、また実際に信じている生の信者に触れているか否かの違いは大きい。
バーカー博士は自分の目で直接統一教会の修練会や信仰生活の現実を見たのに対して、櫻井氏は脱会した元信者の目というフィルターを通してしかそれを見ていない。脱会者の目には、自分が体験した修練会や信仰生活に対する後悔や怒りといった色眼鏡が掛けられており、それを通して自分の体験を再解釈している。信仰は人間のアイデンティティーの中核をなすものであるため、信仰を持って世界を見るのと、信仰を失って世界を見るのとでは、世界はまったく異なる像を結ぶことがある。当然のことながら、「信仰の本質とは何か」を理解しようと思えば、信仰を持っている当事者にとって統一教会の体験が何を意味するのかを理解しようと努めなければならない。しかし、信仰を失った人の目には、もはや信じていた時と同じように世界が輝いて見えることはなく、色褪せた幻のような体験にしか映らないのである。信仰を魚に例えれば、バーカー博士が新鮮な刺身を食べているのに対して、櫻井氏は数日経って腐った刺身か、干からびた魚の残骸を食べているということになるだろう。
次に、櫻井氏はなぜ中西氏を共同研究者として選んだのであろうか? 櫻井氏の研究は脱会した元信者の証言に依拠した研究であり、一宗教団体の信仰のあり方について研究しているにもかかわらず、現役信者に対する聞き取り調査を全く行っていない。これではいくらなんでもサンプリングが偏っているというそしりを免れないので、もともと全く別の研究をしていた中西氏を共同研究者として巻き込んで、「現役信者の証言も聞いていますよ」というアリバイを作るために、彼女の調査結果を利用したのである。
こうして巻き込まれた結果として、もともとは客観的で価値中立的であった中西氏の研究は、批判的な論調に変質させられる結果となった。もともとの中西の調査結果は、大多数の在韓祝福家庭婦人は経済的には楽でなかったとしても何とか平穏無事に暮らしており、統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであるというものであった。彼女たちにとっては、韓国の男性と結婚し、夫や夫の父母に尽くすこと、子どもを生み育てること自体がが贖罪となり、地上天国建設への実践となっている、という肯定的な理解をしていたのである。
客観的な事実の記述としてはこれで十分なのだが、それでは批判したことにならず、統一教会を利する記述になってしまうことを心配したのか、中西氏は本書の中で、突如として取ってつけたような批判を展開したり、「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」というステレオタイプ的な議論を展開するようになった。しかし、中西氏自身は日本の統一教会を実際に調査したことがないので、それは統一教会反対派から提供された裁判資料からくる「虚像」を丸写しにしているに過ぎない。こうして中西氏の担当した部分は、論理的に破綻した、ちぐはぐな主張になってしまったのである。これは、自分の書いた文章に統一教会反対派が文句をつけないための「忖度」によるものだ。
櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』は、このような「不幸な出会い」によって誕生した本である。それは客観的で価値中立的な宗教研究ではなく、批判のための批判であり、イデオロギー的なプロパガンダ用の研究としか言いようがないものである。