書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』50


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第50回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」

 先回をもって第Ⅰ部の書評を終えて、今回から第Ⅱ部に入る。この章の目的は、人がいかにして統一教会に伝道され、回心を経験し、組織の中で信仰を強化し、またいかに脱会していくのかを描写しようというものである。タイトルにおいて最初から「脱会」が想定されており、信仰を継続していくことが前提とされていないのは、後から詳しく述べるように、既に統一教会を脱会した者たちに対する聞き取り調査を主な情報源としてこの研究がなされているためである。

 第六章の冒頭で櫻井氏は「一 研究の方法」として、自分がどのような人々を情報源としてこの研究を行ったかを明らかにしている。結論から言えば、統一教会を既に脱会した元信者が情報源であり、その大半は統一教会を相手取って民事訴訟を起こした原告及びその関係者である。このような情報源に深刻な偏りがあることは既にこのブログの中で何度も述べてきた。要するに櫻井氏は、統一教会反対派のネットワークから情報を入手したのである。そこは元信者の宝庫であり、「青春を返せ」裁判のための陳述書や証拠書類という形で資料は山のようにある。極めて包括的な資料がいとも簡単に手に入り、インタビュー対象も探さなくても紹介してもらえるのである。しかし、それらは教会への入信を後悔している元信者の証言という点で強いネガティブ・バイアスがかかっている可能性と、裁判に勝つために脚色された可能性の高い、極めて偏った資料である。これが櫻井氏の研究における最も重大な方法論的問題となっている。こうした批判は当然予想されることなので、櫻井氏は「一 研究の方法」を以下のような表現で書き始めている。
「信仰という生きられた経験を聞き取る際に、信仰生活を継続している人と信仰を捨て別の生き方を選び直した人では、同じ経験をしたとしても信仰そのものへの評価はかなり異なる。しかし、どちらの語りがより真実に近いかという判断はできない」。(p.197)

 ここで櫻井氏は「真実」というややナイーブな言葉を使っている。「事実は一つだが真実は人の数だけある」とか「私にとっての真実」というような表現がなされるように、客観的で多くの人が認める「事実」に比べて、「真実」という言葉には主観的で体験的な響きがある。数ある人間の経験の中でも、宗教体験ほど主観的で実存的な要素の濃厚なものはない。それだけに、脱会者と現役の信者では「真実」がまったく異なっていたとしても不思議ではない。しかし、櫻井氏がここで言っているのは、脱会者と現役の信者のそれぞれに真実があるというような、不可知論的な主張ではない。むしろ、通常の宗教研究は信仰生活を継続している現役信者から聞き取りを行うものだが、必ずしもそこに真実があるとは限らない、むしろ自分の行った脱会者からの聞き取りの方が真実に近いかもしれませんよ、と暗に言いたいのである。彼が「真実」という言葉を使う理由は、現役信者の主張ではなく、自分がこれから描く統一教会の信仰の方が「真実」に近いかもしれませんよ、と主張するための伏線にすぎない。現役信者からの聞き取り調査を行っていないことによほど引け目を感じているのか、櫻井氏は続けてこうも言っている。
「統一教会という特異な教団で青年期を過ごした人達の眼差しは、信仰生活にリアリティを感じている人と、そこを突き抜けたところに意味を見いだした人、統一教会への懐疑や信仰生活への悔恨を通過した人が同じわけがない。また、統一教会の経験といっても、教団における地位や役職、活動の経歴によっても一つの組織の見え方は様々だろう。」(p.197)「様々な立場を経験した複数の人達から多面的・多声的な宗教経験を聞き取ることで、ようやく統一教会信者が経験した信仰に迫ることができる。」(p.198)

 こうした主張自体は、私がこのブログの中で繰り返し言ってきたことでもあるので、基本的に同意することができる。しかし、この主張と櫻井氏が実際に採用した研究方法の間には齟齬があり、研究方法としての重大な問題点を残している。それは、「ムーニーの成り立ち」の著者であるアイリーン・バーカー博士の研究方法と比較することによって明らかになる。まず、アイリーン・バーカー博士は統一教会の主催する修練会に自ら参加したり、統一教会のセンターに寝泊まりしながら組織のリーダーやメンバーの生活を直接観察するなどの「参与観察」を行っているが、櫻井氏はそれをしていない。すなわち、バーカー博士が参与観察とインタビューという二つの方法で情報を収集しているのに対して、櫻井氏はテキストの閲覧とインタビューしか行っていないということだ。

 たとえば「統一教会の修練会とはどんなものか」を分析するときに、実際に参与観察を行った研究者と、過去に参加した人に対してインタビューを行っただけの研究者では、経験の直接性において雲泥の差がある。英語でいえば、firsthandとsecondhandの違いということであり、これは信仰というものを「生きた経験」であるととらえた場合には深刻な違いとなって現れる。実際に人が伝道され、回心していく現場に立ち会っているのかいないのか、また実際に信じている生の信者に触れていのるかいないかの違いは、こと「信仰の本質」に迫ろうと思うのであれば避けて通ることができない。バーカー博士は自分の目で直接統一教会の修練会や信仰生活の現実を見たのに対して、櫻井氏は脱会した元信者の目というフィルターを通してしかそれを見ていないのである。

 脱会者の目には、自分が体験した修練会や信仰生活に対する後悔や怒りといった色眼鏡掛けられており、それを通して自分の体験を再解釈している。信仰は人間のアイデンティティーの中核をなすものであるため、信仰を持って世界を見るのと、信仰を失って世界を見るのとでは、世界はまったく異なる像を結ぶことがある。当然のことながら、「信仰の本質とは何か」を理解しようと思えば、信仰を持っている当事者にとって統一教会の体験が何を意味するのかを理解しようと努めなければならない。しかし、信仰を失った人の目には、もはや信じていた時と同じように世界が輝いて見えることはなく、色褪せた幻のような体験にしか映らないのである。信仰を魚に例えれば、バーカー博士が新鮮な刺身を食べているのに対して、櫻井氏は数日経って腐った刺身か、干からびた魚の残骸を食べているということになるだろう。

 もう一つの方法論的欠陥は、櫻井氏が「多面的・多声的な宗教経験」を包括的で公平に扱っているわけではないということだ。櫻井氏の主要な情報源は、自ら認めている通り、全国霊感商法対策弁護士連絡会を通して提供されたものであり、統一教会を訴えた元信者の陳述書や準備書面、判決文といった「裁判資料」である。(p.200)こうした資料に偏向があることは明らかなので、「裁判資料に偏向がないわけではない」(p.200)とか、「信仰の内容も統一教会により欺罔を受けたという点に焦点が当てられる」「裁判の原告となった人が統一教会信者をどの程度代表しているものかがわからない」「裁判を起こした元信者のデータははずれ値の可能性が高い」(いずれもp.201)などど、想定される批判を先取りして述べている。

 それでは、櫻井氏はこうした問題点をどの程度真剣に考慮したのだろうか。なんと彼は、「筆者はこの問題を根本的に解消することはできないと考える」と開き直ったうえで、「テキストの信頼性を増すために、可能な限り裁判の原告となった元信者の相対的な位置を知ろうと努めた」(p.201)とだけ述べているのである。要するに裁判資料の信頼性を厳密に検証する気はハナからなく、それが信頼できるものであることを証明するために裁判を起こさなかった元信者とも接触して話を聞いたり、裁判で被告側(統一教会側)証人として立った現役信者の証言内容を一部参考にしただけなのである。これは裁判資料が初めから正しいと決めつけて、それを傍証する材料を見つけては補強するという手法であり、彼のいう「多面的・多声的な宗教経験」の中から、自分にとって都合の良いものを選択的に集めているにすぎない。これが櫻井氏の研究の基本姿勢である。

 櫻井氏は、裁判の原告となった元信者と、被告側証人として証言に立った現役信者の間でも、入信の経緯や活動内容、そして信仰生活の物語にほとんど変わりがないと主張する。「両者において一点だけ決定的に異なるのは、信仰生活を是とするか非とするか、現時点における評価の部分だけだ。いつ、どこで、何を行ったかという事実的事柄に関することでは、現役の信者と脱会した信者の間に争いはない」「筆者が資料とするのは、このような強い資料性のある出来事である」(p.202)というわけだ。

 これは二重の意味で間違っている。まず第一に、事実関係の争いのない民事訴訟などというものはありえない。実際に元信者が統一教会を相手取って起こした損害賠償請求訴訟においても、原告と被告ではまったく異なる事実を主張し合って争ったのである。したがって、原告の主張する「事実」が文字通りの事実であるという保証はどこにもない。ここでは、現役信者と脱会者にはそれぞれ異なる「真実」があるかもしれないが、「事実」は一つである、というようなシンプルな二分法は成り立たない。実際の裁判は、事実そのものを巡って争われているのである。第二に、櫻井は揺るぎない事実としての強い資料性のある出来事だけを資料として研究を行っていると主張しているが、彼の記述は元信者の証言から客観的な事実だけを抽出したものではなく、それに伴う主観的な評価の部分もそのまま踏襲して、それを「真実」として読者に訴えている。したがって、彼の研究は「多面的・多声的な宗教経験」に包括的かつ公平に耳を傾けたものではなく、利害の対立する一方当事者の「真実」に肩入れし、他方当事者の「真実」を捨象しているという点において、著しく偏った研究となっているのである。

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