『生書』を読む01


 今回より、日本の新宗教研究の一環として、天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るというシリーズを開始する。以前に私はこのブログの中で「北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ」と題して12回にわたって連載したことがった。このシリーズはその続編に当たるが、前シリーズの第1回で私は以下のように書いている。
「一つの宗教団体について研究する際には、まずはその教団が出版している文献に目を通し、その教団の自己理解に沿って捉えようとするところから出発するのが正統的なやり方である。ところが、天照皇大神宮教の教えを表現している『生書』や『天聲』は市販されておらず、部外者には入手が困難である。そこで研究の資料としては、客観的な記述であると定評のある『新宗教辞典』(弘文堂)によって基本的な事実を抑え、さらに島田裕巳著『日本の10大新宗教』(幻冬舎)、上之郷利昭著『教祖誕生』(講談社)に記述されている内容に基づいて分析することとした。」

 つまり前回のシリーズを書いたときにはオリジナルの経典を手に入れることができなかったので、それを直接読まずに第二次資料に基づいて書いたわけだが、今回は経典が手に入ったので改めて研究しようということだ。

 私が『生書』を手に入れたのは、2019年6月22日に『宗教新聞』の取材に同行して、山口県田布施にある天照皇大神宮教本部を訪問したときのことである。教務と総務の2名の方に道場を案内していただき、天照皇大神宮教の教えについて丁寧に説明していただいた上で、最後に『生書』全4巻を贈呈された。心より感謝したい。非信者の方が『生書』をどのくらい読むのかは不明だが、とりあえず私は家庭連合の信者の中で『生書』を読破した第一号となることを目指したい。

 初めに、私が『生書』を読む立場について述べておきたい。私は天照皇大神宮教の信者ではないので、それを読んで述べることは「非信者の感想」ということになる。しかし、教義をことさらに批判しようと思って読むわけではなく、基本的に他宗教の教えに対する敬意を払いつつ、自分の信仰と比較しながら客観的に読もうということである。したがって、信者の方々が読めば、教えに対する理解不足からくる失礼な表現が含まれてくるかもしれない。一方で、私自身が世界平和統一家庭連合の信仰を持っているため、神仏をまったく信じない無神論的な立場から『生書』を読むわけではない。したがって、神に対する信仰や教えに対しては概して好意的で共感的な立場から読むことになる。家庭連合の教えと相通ずるものがあれば積極的に評価し、逆に相反するものがあれば疑問を呈するということになるであろう。

 こうした立場をとりつつも、最も難しいのが天照皇大神宮教の教祖をどのように呼ぶかという問題である。『生書』の中で北村サヨ氏は一貫して「大神様」と呼ばれている。これは家庭連合の中で文鮮明師が「真のお父様」と呼ばれ、韓鶴子総裁が「真のお母様」と呼ばれているのと同様の信仰告白に近い呼称である。先に紹介した外部資料である『新宗教辞典』、島田裕巳著『日本の10大新宗教』、上之郷利昭著『教祖誕生』などでは、すべて「北村サヨ」と呼び捨てにしている。しかし私自身の感性としては、「『生書』を読む」というタイトルで書く以上、呼び捨てにするのはあまりにも失礼ではないかと思う。それは私自身が、たとえ外部の人の記述であったとしても「文鮮明」と呼び捨てにされるのは気持ち良くはないからである。

 そこで私は天照皇大神宮教の教祖北村サヨ氏を「大神様」と呼んでこのシリーズを執筆することにした。その理由は、『生書』における呼称と一致させることにより、その信仰世界に飛び込んで、内在的な理解をしようとするためである。したがって、このシリーズにおいては、「大神様」とは北村サヨ氏のことを指すのであるとご理解いただきたい。

 このシリーズは『生書』を一通り読み終えた後に書き始めるのではなく、第一巻から読み進めながら、その時々に感じたことをつれづれなるままに書くというスタイルで続ける予定である。したがって、先を読み進めれば分かるはずの疑問を、そのときに感じたままに書いてしまうということがあり得る。そこは、私自身の理解が時と共に深まっていくのであるとご理解いただきたい。当然、シリーズが最終的に何回になるかも現時点では予想できない。そうした前提のもとに、第一巻の「序」の部分から読み進めていきたい。

<「序」>

 『生書』は「二十世紀もその半ばを過ぎ、文明科学の世はその極に達しつつある現在、人類は再び避けようとして避けられぬ戦禍に見舞われんとしている。神を忘れ、神に背き、真の宗教を失った人々のたどるべき運命である。」(p.1)という言葉をもって始まっている。

 冒頭から、それがいつ頃に書かれたのかが分かる記述である。この序文の最後には「紀元六年四月」と記されており、奥付の初版発行は「紀元6年7月22日」となっている。天照皇大神宮教では、昭和21年1月1日に神の国開元を宣言し、その年を紀元元年としている。以来、教団ではこの紀元で年を表現しているので、紀元6年とは一般の暦では昭和26年、1951年を指す。まさに20世紀が半ばを過ぎた年である。

 いかなる宗教の経典も、それが書かれた時代の空気を吸い、その影響のもとで書かれる。1951年と言えば、まだ第二次世界大戦の記憶が生々しく残っている時代であり、同時に東西冷戦が激化する中、1950年には日本の隣国で「朝鮮戦争」が勃発した直後である。1953年に休戦協定が結ばれるまでは実質的に戦争状態にあったのであるから、こうした国際情勢を背景とすれば「人類は再び避けようとして避けられぬ戦禍に見舞われんとしている」という記述は、当時の空気としては十分に理解できる。

 私も「冷戦時代」をリアルタイムで生きた世代ではあるが、第二次世界大戦は経験していない。やっとの思いで敗戦の絶望を乗り越え、平和な世界を願っていた当時の良心的な日本人にとって、東西冷戦の緊張度が増し、「朝鮮戦争」という形で具体的に火を噴いたという現実は、人類の未来には希望がなく、またしても戦争を繰り返すのではないかという危惧を抱いたとしても不思議ではない。

 イエス・キリストはマタイ伝24章において、「世の終りには、どんな前兆がありますか」と弟子たちから尋ねられ、「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。」(マタイ24:6)と答えている。戦争は人類が経験する究極的な苦難の一つであるため、戦争の不安は一種の終末論的な雰囲気を醸し出す。それは人々に人間の愚かさや自分自身の無力を実感させ、何か神の決定的な介在なしには人類に救いはないという信仰を生み出すか、少なくともそれを助長するのである。『生書』がそのような時代背景から生まれたことは、その冒頭の言葉からも明らかである。

 世界平和統一家庭連合の教理解説書である『原理解説』は、『生書』より6年遅れて、1957年8月15日に韓国で出版された。それがより発展して『原理講論』として出版されたのは1966年である。当時の韓国の状況は、日本による植民地支配から解放されたかと思ったら、「朝鮮戦争」によって国土が焦土と化してしまったという絶望的な状況にあった。そして「東西冷戦」という当時の状況は、『原理講論』の神学的体系にも決定的な影響を与えている。『原理講論』の「世界大戦論」においてサタン側の再臨主型人物とされているのはソ連のスターリンだったのである。

 『生書』と『原理講論』は、第二次世界大戦が終了し、東西冷戦が深刻化しつつある世界という、同じ時代背景の中で書かれた書物であると言える。それは真の平和は人間の手によっては成されず、神の御言葉に従い、神の力に寄らなければ実現できないという、終末論的なメッセージなのである。

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