書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』184


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第184回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第177回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入った。これは中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分だ。今回はそのまとめの部分を扱うことにする。

 少し時間を空けてこのシリーズが再開したので、前回までの内容を簡単にまとめておきたい。中西氏の分析で一貫しているのは、「過酷な日本における信仰生活」と「楽で落ち着いた韓国における信仰生活」という対比である。要するに韓国で暮らす日本人女性たちの信仰生活は肉体的・精神的にきついものではなく、一般のプロテスタント教会とあまり変わらないということだが、それと対比されている「過酷な日本における信仰生活」は中西氏自身が観察したものではなく、主に統一教会反対派から提供された文献に基づく「虚像」であった。この点に関しては第183回で詳しく考察したのでここでは繰り返さないが、中西氏は韓国での日本人女性信者たちの信仰生活について以下のように記述している。
「統一教会の信者とはいっても普段の信仰生活は礼拝に出席する程度であり、日本で経験した献身生活と比べるとのんびりしたものである。何か特別な行事があるときには動員があり、裏方として動いたり参加したりするが、無理のない範囲で行えばよく、あくまでも家庭優先である。献金や家庭での信仰生活も厳密なものではなく、行わなかったとしても咎められることはない。結婚難にある農村男性のもとに嫁ぎ、生活は経済的に楽でなく、言葉や生活習慣が異なるというしんどさ、辛さはあっても信仰生活の内容、実践は一般のクリスチャンとあまり変わらず、心身共に落ち着いた信仰生活を送ることができる。献身生活のような厳しい実践が渡韓後も続いたとしたら心身共に疲弊するが、落ち着いた信仰生活に移行することによって信仰を続けていけると考えられる。」(p.489)

 こうした事実は、統一教会の信仰が統制された環境下においてのみ維持されるものであるという、古典的な「マインド・コントロール言説」に対する一つの反証であると言ってよいであろう。『マインド・コントロールの恐怖』の著者スティーブ・ハッサンは、マインド・コントロールの4つの構成要素として「行動コントロール、思想コントロール、感情コントロール、および情報コントロール」を挙げた。要するに、統一教会に回心するプロセスにおいては、都会を離れた研修所に合宿することで情報をコントロールし、集団行動をさせることで行動をコントロールし、短期間で数多くの講義を聞くことによって思考をコントロールし、レクリエーションやスポーツ、班長による面接などによって感情をコントロールすることによって、回心を人工的に作り出すのだという理論である。そして入教した後も、プライバシーの抑制された環境下で集団生活をすることによってマインド・コントロールが維持されているということであるから、こうしたコントロール状態が切れてしまえば信仰を失うはずである。「洗脳」や「マインド・コントロール」は真の回心をもたらさず、環境によって条件付けられているだけであるという前提に立てば、そうした環境が存在しない「楽で落ち着いた」韓国での生活に入ったら、マインド・コントロールが解けて信仰を失ってもよさそうなものだが、実際には環境が変わっても日本人女性信者たちは信仰を続けている。これは彼女たちの信仰が単に環境によって条件づけられたもの、すなわち外界からの刺激によって維持されているものではなく、内面に動機を持つものであるからに他ならない。その意味で、統一教会への回心は単に教団にコントロールされている状態なのではなく、人の内面に本質的な変化をもたらす「真正な回心」であるということを、在韓の日本人女性信者たちは証明しているのである。

 中西氏は、日本での信仰生活と韓国での信仰生活の関係性について、以下のように記述している。この中で中西氏は奇しくも日本人女性たちの中に統一教会の教えが「内面化」されており、それが韓国においても維持されていることを認めている。信者たちと実際に接した中西氏は、少なくとも単純な「マインド・コントロール言説」では事実を説明できないことは理解しているようである。
「しかし信仰生活が厳しいものでなくても、祝福で結婚し、韓国に嫁いできたこと自体がそもそも特異な信仰実践である。それは日本での信仰実践を通して統一教会の教えを内面化することによって可能となったものであり、日本での信仰生活の延長線上に現在の生活がある。統一教会の信仰実践の目的が地上天国建設であることに変わりなく、信者にとっては日本にいようとも韓国に嫁いで来ようとも信仰実践の毎日である。日本にいたときに課せられた実践が布教や経済活動(万物復帰)だとすれば、韓国で課せられた実践は無原罪の神の子を生み育てることである。日本人女性達は地上天国建設のために動員され続けていることに変わりない。教団でも在韓の日本人信者を『特別な使命を持った天の精鋭部隊』(国際家庭特別巡回師室 一九九六:二四五)と捉えている。彼らを特別視し、価値づけていることが窺えるが、実際のところは韓国人女性が結婚したがらない農村男性とカップリングさせて、世界平和の実現という大義名分のもとに日本人女性信者に苦労の多い生活を強いている。」(p.489-490)

 韓国での祝福家庭婦人としての生活と活動が、日本での信仰実践を通して統一教会の教えを内面化することによって可能となったものであり、日本での信仰生活の延長線上に韓国での信仰生活があるという中西氏の分析は正しい。それは日本人女性信者たちの自己認識とも一致するであろう。日本と韓国では環境も日々の生活で行うことも異なるけれども、究極的な目的は同じであり、そこには一貫した流れがあると認識しているのである。彼女たちは信仰によって環境に順応し、自己のアイデンティティーを守りつつ、一貫性のある人生を歩んでいると言ってよいだろう。これは人生に対する非常に主体的な態度であり、信仰者に固有の「強さ」であると言っても良いかもしれない。

 にもかかわらず、彼女たちに対する中西氏の記述は「動員され続けている」とか「世界平和の実現という大義名分のもとに日本人女性信者に苦労の多い生活を強いている」といったような受動的な表現に満ちている。これは彼女たちの主体性を過小評価した侮辱的な表現であると言ってよい。

 宗教の世界においては、自分を捨ててより大きな目的、すなわち神や仏の目的のために自身を捧げることを「献身」といい、古来より美徳の一つとして認識されてきた。仏教の僧侶やキリスト教の修道士が出家するのもこうした動機に基づくものであり、苦痛を伴う修行をしたり、苦労の多い海外宣教に身を投じたりするのも、「献身」の精神が基本になっている。統一教会の女性信者たちが異国の地に嫁いでくるという、中西氏の言う「特異な信仰実践」をするのも、こうした精神の延長線上にあるものだ。宗教の世界を離れて、スポーツの世界で一流を目指す者が過酷なトレーニングに挑むのも、芸術家が究極の美を追求するために超人的な努力をするのも、すべて「偉大なことを成し遂げたい」という主体的な動機によるものである。こうした事例においては、僧侶や宣教師が教団の目的のために「動員され続けている」とは言わないだろうし、アスリートや芸術家たちが「苦労を強いられている」とは表現しないであろう。にもかかわらず、統一教会の女性信者が自らの意思で苦難に挑戦するときには「動員されている」とか「強いられている」といった受動的な表現を用いるのは偏見であるとしか言いようがない。

 中西氏はこの節を以下のような表現で結んでいる。
「では次に、日本人女性達自身は祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているのかを探っていこう。彼女達が主観的にどう捉えているのかを見ることで、なぜ教団が決めた韓国人男性と恋愛感情も交際期間もないまま結婚し、家庭を築いて暮らしていけるのか、つまり、なぜ統一教会の信仰を続けているのかの答えが少し見えてくるのではないかと思う。」(p.490)

 この中に中西氏の本音が透けてみている。要するに彼女は、客観的に見れば日本人女性信者たちは教団によって動員され、苦労の多い生活を強いられているにすぎないのだが、彼女たちの主観においては、教団の教えによって意義付けがなされているためにやってけいるのだと見ているのである。しかしここにおける「客観」とは、信仰を持たない世俗人としての中西氏の視点に過ぎない。彼女は自らの視点を「客観」とし、当事者である信者の視点を「主観」とする座標軸を構築していることになるが、その視点さえも相対化したときにもう一つの真実が見えてくるということにはまだ気付いていないようである。宗教は「主観」が大切な現象である。その内面世界に対して、「客観」の名のもとに、「動員されている」とか「強いられている」といった世俗的な価値判断をするのは傲慢である。

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