Web説教「メシヤと私」04


 「メシヤと私」と題するWeb説教の第4回目です。1980年代に作られた「世にも不思議な物語的」なショートドラマ「善行銀行」のストーリーを紹介し、その背後には、日本人に広く共有された一つの世界観、宗教観である「因果応報」があることを指摘しました。そして前回までに、「因果応報」の信仰観の限界として、①罪が重すぎて、それでは救われない人々がいる、②自己義認、③誰が見ても正しい人であるにもかかわらず苦難を受けることがある、という三つの問題を挙げました。今回は旧約聖書のヨブの物語を取り上げながら、3番目の問題点を掘り下げていきたいと思います。ヨブ記は、「どうして義人が苦難を受けるのか?」という非常に重い課題を扱った書物です。

 このヨブという人物は大変正しい人であったので、神様はサタンに対して「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にいないことを気づいたか」と言いました。神様がここまで言うくらいですから、ヨブはよほどの義人だったのでしょう。しかしサタンは神様にこう答えます。
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼の所有物を守り、勤労を祝福し、家畜が増えたからこそ、彼は信じたのです。もし彼の所有物を奪ったら、彼はあなたを呪うに違いありません」

 そこで神様はヨブの体には手を付けず、彼の所有物を奪うことをサタンに許可します。するとヨブの僕たちは盗賊によって殺され、家畜は奪われ、さらには大風によって子供たちがみな死んでしまいます。それでもヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の名はほむべきかな」と言って、神を呪わずに乗り越えたのでした。

 そこで神様はサタンに向かって、「それ見ろ、ヨブは理由なく打たれたにもかかわらず、その信仰はゆるがなかった」と言いました。するとサタンは、「今度は、彼の体を打ってごらんなさい。そうすれば彼はあなたを呪うでしょう」とそそのかします。神様はそれを聞いて、「彼の体を打ってもいい。ただし命だけは奪うな」と許可されたのです。するとヨブの全身をいやな腫物が襲い、悲惨な状態になりました。そんな状態のヨブに向かって彼の妻は、「いっそ、神を呪って死になさい」と言ったのです。しかし、それでもヨブは「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも、受けるべきではないか」と言って退け、唇で罪を犯さなかったというのです。

 ヨブ記は、正しいにもかかわらず苦難を受けるのはなぜなのかというテーマを扱った書物であると言われています。キリスト教神学においてその解釈はさまざまですが、私たちの解釈は非常にシンプルです。

 この物語のポイントは、実はサタンの存在です。サタンはどのような存在であるかというと、神の前に人間を讒訴する存在なのです。サタンは人間の中に罪を発見しては、神様に対して、「この人間はこういう罪を犯したので、あなたの子供ではありません。天国に行く資格はありません。」と訴え続けます。サタンはあらゆるアラを探して人間を讒訴します。ときにはヨブのように正しい人であったとしても、「どうせご利益があるから信じているに違いない」と言って、認めようとしないのです。サタンは意地でも人間に屈服したくないのです。

 神様は、そのようなサタンさえも屈服させることのできる善の基準、信仰の基準を立てることのできる人間を探し求めて来られたのです。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブといった人々は、そうした「サタン屈服路程」を歩んだ人々でした。そしてヨブもまた、人類を代表してサタンを屈服させるために、正しいにもかかわらず苦難の道を行った人物であったのです。それは彼の個人的な罪のゆえではないので、「因果応報」と「自業自得」は当てはまりません。ヨブがなぜ苦難の道を行ったのかと言えば、人類の罪を背負って苦難の道を行き、それでも信仰を全うすることによって、サタンを屈服させるためです。ですからある意味でヨブはメシヤ的な使命を持った人物であったと言えるでしょう。

 イスラエル民族の中でなぜヨブ記のような書物が生まれたかというと、彼らもまた苦難の民族だったからです。他国の人々は偶像を信じ、罪を犯しながら生活している中で、自分達だけが唯一なる創造主を信じ、律法を守って生活しているにもかかわらず、なぜ自分たちの民族は他国に滅ぼされて国を失い、捕虜となって異国で暮らすような、苦難の道を歩むのだろうか、という疑問を、彼ら自身が持っていたので、ある意味でヨブというのはイスラエル民族の自画像でもあるのです。彼らは民族的な次元で、全人類の罪を背負って蕩減の道を歩むことを宿命づけられた民族であったわけです。

 それではそのイスラエル民族が待ち望み、人類の罪を背負って蕩減の道を歩む最終的な使命を持った人物とは誰でしょうか? それこそがメシヤという存在なのです。イエス様は罪なくして生まれました。にもかかわらず、彼は十字架の道を行かれました。それは自分の罪のゆえではなく、人々の罪を背負って贖罪をされたということです。これを、誰かの身代わりとなって罪の清算をするという意味で、「代理蕩減」と言います。なぜ、そのようなことが起きたかというと、堕落人間の罪があまりにも深く、自分ではその罪を償うことができないので、人類を代表して一人の人が贖罪の道を行き、苦難の真っ只中でも神を呪わず、信仰を全うすることによって、サタンを屈服させるためであったのです。

 イエス様の死の意味は、旧約聖書のイザヤ書53章の「苦難のしもべ」と呼ばれる部分によく表現されています。
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」

 この説教の結論に入ります。私たちが神様の前に有罪となるか、無罪となるか、裁かれるか救われるかは、どのようにして決定されるのでしょうか? それは単に罪の重さや自分自身の善行のポイントによって、客観的に決められるのではありません。天の法廷における裁きのプロセスを通して決定されるのです。

 私たちは罪人ですから、被告人として天の法廷に立っています。私たちの前には天の裁判官としての神様が座っています。その裁きは公正で、天法に基づいています。そして私たちの罪を讒訴し、地獄行きを主張する検事の役割をする存在がサタンです。それに対して、私たちの良いところを指摘し、何とか天国に連れていこうとして守ってくれる、弁護士の役割が、メシヤということになります。地上の法廷では、弁護士は言葉で弁護してくれるだけですが、メシヤは私たちの罪を代理蕩減して、サタンを屈服させたうえで、私たちを裁判長である神様にとりなしてくれる存在なのです。ですから、私たちはメシヤにつながらない限りは、神様のもとに行くことができないのです。

 しかし、私たちは無条件で救いを受けることはできません。私たちを神様につなげてくださるメシヤを受け入れたという、小さな条件を立てる必要があるのです。メシヤはサタンを屈服させる蕩減条件を、人類を代表して立ててくれました。ですから、私たちはメシヤにつながることによって、その勝利圏を相続することができるのです。これが救いです。

 再臨のメシヤである真のご父母様の勝利圏を相続する中心的な行事が、まさに祝福です。私たちが聖酒を飲むとか、祝福式に参加するとか、そのための献金をしたりすることは、メシヤの歩まれた苦難の道に比べれば、取るに足らない小さな蕩減条件です。しかし、それによって私たちはメシヤと親子の関係を結ぶことにより、その勝利圏を相続して、救いの圏内に入っていくことができるのです。これはメシヤの血と汗と涙の代価によって私たちに与えられた、貴い恩寵なのです。

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