書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』136


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第136回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 先回から「六 統一教会の教化方法の特徴」に入った。この節の主たる目的について櫻井氏は、「統一教会のマインド・コントロールとして論議されてきた勧誘・教化の技法や心理状態を宗教社会学的観点からどのように解釈できるかを考察してみたい」(p.393)と述べている。櫻井氏はいわゆる洗脳論者やマインド・コントロール論者ではない。これらはどちらかと言えば心理学的なアプローチだが、自分は社会学者なので宗教社会学的なアプローチから人が統一教会に入教するプロセスを分析しようというわけだ。

 櫻井氏は、「統一教会の宣教方法において問題となるのは、心理的なプレッシャー以上に一連のセミナーやイベント、信者同士の交流によって、徐々に信者達の人生観・世界観に関わる認識の枠組みが転換されたという事実である」(p.394)と述べている。ここでは「心理的なプレッシャー」がいわゆる洗脳論やマインドコントロール論において主張されているものであると思われ、勧誘者が被勧誘者に一方的に心理的圧力を加えて、個人の世界観を短期間で変容させてしまうというモデルである。櫻井氏は統一教会の元信者たちに対するインタビューを行った結果、それが事実ではないと判断するに至った。実際には人生観が転換されるプロセスは徐々に漸次的に起きているのであり、それも「騙す・騙される」「加害者・被害者」という単純な図式で起きるのではなく、信徒同士の交流という社会的なダイナミズムの中で起こるものである、という知見を述べていると思われる。これ自体は、事実と乖離している分析であるとは思われない。

 実は櫻井氏自身が「この事態は、統一教会に限らず、他の宗教団体においても見られることだ」(p.394)と告白しているように、セミナーやイベントや信者同士の交流によって人生観や世界観が変わることこそ、まさに人が伝道されるということなのである。したがって、伝道のあり方自体は統一教会においても他の宗教団体においても本質的な差異があるわけではない。このことは、統一教会が「洗脳」や「マインド・コントロール」と呼ばれる何か特殊なテクニックを用いて伝道しているという従来の指摘が誤りであることを櫻井氏が認めたということになり、その点においては評価したい。

 自らの専門領域を「社会心理学」と分類する西田公昭氏(立正大学教授)は、「カルト」と呼ばれる新宗教に人が伝道されていく過程を「永続的マインド・コントロール」と名付けてそのメカニズムをモデル化した。それはビリーフ・システムと呼ばれる意思決定の装置を入れ換えることによって、人を永続的にコントロールする技術であるという。その詳細をここで解説することは避けるが(西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店 1995)を参照のこと)、それは基本的にある人が新宗教に出合い、その教えに共鳴して、教団の中で徐々に自分のアイデンティティーを確立していく過程を、悪意をもって表現したものに過ぎない。

 彼はAさんがもっていた独自のビリーフが、X組織との接触を通して、徐々にX組織のビリーフと入れ替わっていく様子をモデル化して説明しているが、これはウィリアム・ジェイムズ(米国の哲学者、心理学者:1842-1910)による回心の描写に酷似している。ジェイムズは回心の経過を「今までは、当人の意識の外囲にあった宗教的なものが、いまや中心的地位を占め、宗教的目標が当人の精神的なエネルギーの中心として習慣的にはたらくようになる」(小口偉一 堀一郎監修『宗教学辞典』東京大学出版会 1973年 p.84)と説明している。たとえこれが伝道者の働き掛けによって引き起こされたとしても、それはどこの宗教においても日常的に起こっていることであり、あえて「永続的マインド・コントロール」などという仰々しい名前を付ける理由はどこにもない。

 このように、統一教会の伝道方法そのものは他の宗教団体と本質的に変わらないものであることを認めた櫻井氏は、問題点をどこにシフトさせるのかと言えば、「どのような宗教行為をなすように信者達の認知枠組みが転換されたかということである。客観的には青年信者であっても数百万円、壮婦であれば資産に応じて1000万円から数億円の献金を要請されるままに出し続け、それ以外の選択肢がないような精神状態に追い詰められていた」(p.394)ことにあるという。要するに統一教会は献金が高すぎるからダメだという、かなりありきたりの主張なのだが、彼の主張の問題点は「それ以外の選択の余地がないような精神状態に追い詰められていた」という分析がはたして正しいかどうかである。

 櫻井氏はあたかも高額の献金が悪であるかのように決めつけ、それを実現するためには教団の要請に抗うことができないような精神状態に信徒を追い込まなければならないと前提している。しかし、こうした前提が正しいことを彼は証明していない。まず、高額の献金を自らの意思で感謝して行う信徒がいる可能性を、櫻井氏は初めから排除している。私は既に元信者Iの事例の分析において、統一教会の信者が高額献金をする動機を以下の三つの観点から分析した。

 まず、最新の幸福度研究によれば、ある一定の収入や財産の基準を越えれば、その人の幸福度がそれ以上に上昇することはなくなるという。したがって、その人の基本的な生活に支障をきたさない限りは、献金によって財産が減ったとしても感情的幸福度が下がることはなく、むしろ信仰を持つことにって、より高次の欲求である愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすことで、感情的幸福度が上昇することがあり得るのである。したがって、高額の献金をするのは精神的に追い詰められていたからではなく、こうした喜びを動機とした合理的な判断である可能性があるのである。

 次に、宗教の役割は目に見えて他人と比較できるような「地位財」に対する執着を捨てさせ、目に見えないより本質的な「非地位財」によって得られる幸福に焦点を当てさせることによって、人間に永続的な幸福をもたらすものであると言える。統一教会の信者が高額の献金をするのは、み言葉を通してより本質的で永続的な価値観に目覚めたため、地位財に対する執着を捨てたからであり、これも幸福学の立場からすれば一つの合理的な判断と言える。一般に宗教的信仰を持つことはその人の幸福度を高めることに役立つが、これは統一教会においても同じであり、信者たちはその対価として献金をしているのである。

 最後に、アイリーン・バーカーの研究によれば、そもそも統一教会に入会するような人は、奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人であるという。青年信者の場合には、自分自身の人生そのものを捧げ、禁欲生活を送り、一切の所有物を持たずに、朝から晩まで献身的に活動に没頭することによって、その欲求を満たすことができる。しかしIのような壮婦は、それと同じ生活をすることができないので、欲求不満に陥るのである。内心では自分自身の全生活を捧げて、神のために献身的に働きたいにもかかわらず、事情によってそれができないIは、できるだけ多くの財産を神に捧げることによって貢献したいと思ったのである。そして献金をする度に霊の親、カウンセラー、そして責任者から褒められることにより、自分自身の価値を感じ、喜びを感じていたのである。

 したがって、いかに高額な献金であったとしても、それを主体的な意思で感謝して捧げ、それによって幸福を感じることは現実としてあり得るのであり、その可能性を最初から排除する櫻井氏の議論は、極めて一方的な決めつけであると言わざるを得ない。

 ではその逆に、自分が教団に所属しているからという理由で、なかば義務的に嫌々ながら献金するケースはないのであろうか? 習慣的に教団に所属してはいるものの、信仰が低下し、感謝の気持ちが薄れた場合には、そうした心理状態になる人は一定の割合でいると思われる。そのような感謝できない状態で献金を勧められたときに、献金をするかしないかの決断は、その人自身の主体的判断によるものか、それとも教会の強制によるものか、その責任はどちらにあるのかという問題が発生するかもしれない。実はこの問題に対する回答は、櫻井氏自身が書いた論文「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察ーマインド・コントロール言説の批判的検討ー」(『現代社会学研究』1996年9 北海道社会学会)の中で与えられている。
「信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない」(p.94~95)

 入信するプロセスにおいても、入信した後の信仰生活においても、その人の自我が完全になくなることはあり得ないし、自由意思が機能しなくなるということもない。したがって、外的な強制力やあからさまな強迫によるものでない限りは、信仰に基づいて献金した責任はその人自身にあると言えるだろう。それを「それ以外の選択の余地がないような精神状態に追い詰められていた」などと教団に責任転嫁する櫻井氏は、自らが1996年に書いた論文をもう一度読んでみるべきではないだろうか?

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