書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』189


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第189回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、聞き取り調査の結果得られた知見に対して自分なりの解釈を施している。これまでの客観的なデータの記述からここでまとめに転じることになるわけだが、「本質」と銘打って行う彼女の分析は、彼女が執筆した部分の中で最もひどい内容になっている。いったい、他者の結婚の本質をこれほどまでに断定的な物言いで規定する資格が一宗教社会学者にあるというのだろうか、と思わざるを得ない。以下に主要な部分を引用する。
「聞き取り調査から韓日祝福の日本人女性達は、韓国での生活を地上天国の実現と罪の清算として受けとめていることが窺われる。彼女達にとっては結婚と結婚生活はこのためにあり、愛情や精神的・物質的安定を求めて結婚したのではないことは明らかである。結婚に愛情や精神的安定を第一に求めたのならば、祝福は到底受け入れられない。彼女達は統一教会の教説を内面化し、恋愛結婚は堕落した結婚であり祝福こそ理想の結婚と受け止めることで、教団が決めたどこの誰ともわからない相手と愛情もないまま、大変な生活になることを覚悟の上で結婚することができた。

 さらにいえば、祝福は結婚であって結婚ではない。結婚をどのようにとらえるかにもよるが、男女の愛情と合意、全人格的な結びつきという点を強調するなら結婚とはいえない。むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践と見る方がわかりやすい。」(p.500)
「祝福と結婚生活は地上天国の実現と罪の清算のための社会変革運動である。彼女達は結婚しようと思って祝福を受け入れたのではなく、統一教会による社会変革運動に共感して身を投じた。したがって祝福に恋愛感情は必要なく、下降婚になっても構わない。信仰のない夫は同志にはならないが、神の子を生むためには必要である。経済的に楽でなく、苦労の多い生活も社会変革運動であり、そのための宗教実践だから受け入れられるものになる。」(p.500-1)
「統一教会の女性信者はみな文鮮明の花嫁の立場にある。夫は文鮮明の身代わりで種を与えるだけにすぎず、彼女達は夫を通して文鮮明の姿を見ている。本音をいえば、大切なのは夫よりも文鮮明であって、彼女達は文鮮明に付き従って共に運動を展開しているのである。彼女達の生活は実態として見るならば、国際結婚をして韓国で生活しているだけだが、彼女たち自身にとっては日本にいたときと変わりなく、文鮮明を頂点にした組織の一員として理想世界を作るため、罪の清算のために邁進する毎日なのである。」(p.501)

 彼女たちが結婚した動機が恋愛感情になかったことは確かだが、だからと言って彼女たちの結婚生活に愛情や人格的な結びつき、あるいは精神的な安定といった要素がないとどうして言い切れるのであろうか。ましてや「祝福は結婚であって結婚でない」という言い方は暴言に等しい。中西氏は恋愛感情と夫婦の愛情を同一視しているようだが、これらは多くの場合別物である。恋愛感情は男女を互いに引き付け、結婚の動機となりえるものであるが、それが一生涯継続することは少ない。通常の結婚生活においても3年程度で熱烈な恋愛感情はなくなり、その後はより穏やかで持続的な夫婦の愛情に変わっていくものである。これは現代の恋愛結婚の場合だが、昔の見合い結婚の場合には親が決めた相手と恋愛感情もなく結婚し、夫婦になることも珍しくなかった。それでも長年連れ添っているうちに徐々に夫婦愛が培われていったのである。統一教会の祝福家庭にもこのような夫婦の愛が育つということを、中西氏は想像できなかったのだろうか。

 この問題に対して、「サイコロジー・トゥデイ」の元編集長であるロバート・エプステイン博士は以下のように述べている。(以下、ビデオ映像からの書き起こし)
「世の中には見合い結婚をして徐々に夫婦間の愛情が成長している例が多くあります。私は2003年からそのような人々を探し出し、幅広い聞き取り調査をしてきました。そもそもの問いかけは見合い結婚の夫婦の間で愛がどのように成長していくのか、愛が成長するのに何が必要だったのかを見つけようとしたのです。と言うのも現在の私たちの婚姻スタイルは機能していません。米国では初婚のほぼ半数が離婚に終わっています。再婚の3分の2が壊れていきます。そして三度目の結婚も75%が離婚しています。今の結婚文化が全くうまく行っていないのは明らかです。

 安定した結婚生活を送れないことによって離婚前後の実に長い期間、様々に惨めな思いを味わい、苦しみを経験するのです。つまり離婚調停とか子供に対する親権の争い、弁護士の加入など、多様な事柄が横たわり私たちを苦しめています。ですから新たな結婚モデルが必要なのは明らかですが、私達が適用できる別のモデルが実は世の中に存在しています。

 私たちが調査のために見合い結婚のサンプルとして選択した夫婦の約28%が統一教会信徒の家族でした。それで若干の比較調査をすることができたのですが、統一教会の夫婦はみな、それ以外の見合い結婚の夫婦と同様に時間と共に愛情が成長しています。統一教会以外の文化を背景にした見合い結婚も、同じように愛情が成長しているのです。

 すなわち見合い結婚が西洋社会の典型的な結婚スタイルと比べて全体的によい傾向が見られ、質的に異なるものになっているのです。例えば典型的な西洋社会の結婚モデルでは、夫婦の間の愛情の度合いを示す曲線は下降線をたどります。見合い結婚の夫婦を見れば、多くの場合に愛情曲線は上昇線をたどるのです。最新の調査によれば、見合い結婚当初の夫婦の愛情度が10点満点中平均5.3点だった夫婦たちに、平均14年後に改めて聞き取りをした際、彼ら夫婦たちの愛情度は平均9.3点でした。これは非常に劇的な上昇傾向と言えます。

 つまり時間と共に愛情を高めていくことは可能なのです。統一教会の信者の場合も、同教会以外の文化を背景にした見合い結婚の夫婦に見られたのとほぼ同じ傾向を見ることができました。」

 日本でも伝統的な見合い結婚が衰退し、欧米流の恋愛結婚が主流となったが、その結果は欧米の現実と同じ離婚率の上昇であった。すなわち、恋愛結婚が必ずしも安定した結婚生活をもたらすとは言えず、むしろその逆であることをデータは示しているのである。

 また、統一教会の祝福結婚について研究した米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、統一運動においては結婚前の独身生活においては恋愛を全面的に禁止しているが、マッチングを受けて相対者が決定した者たちは、「聖別・約婚期間」に徐々にお互いに対する恋愛感情を育てていき、夫婦になった後にも互いに対する愛情を育てていることを認めている。これが事実であれば、韓国人と日本人のカップルにのみこうした夫婦の愛情が育たないということは考えられない。

 「祝福は結婚であって結婚でない」という中西氏の発言は、彼女自身が言う通り、結婚をどのようにとらえるかによって規定されている。中西氏は結婚を、男女の愛情を動機として、精神的・物質的安定を求めてするものだと定義しているが、これは極めて現代的で世俗的な結婚の定義である。一言でいえば、個人主義的で(「上昇婚」という言葉に表現されるような)自己中心的な動機に基づく結婚が当たり前であるという時代の結婚観である。しかし、伝統的な社会においては、結婚は個人の欲望のためにするというよりは、家や血統の存続のため、種族や社会の維持のためといったより公的な目的を持っていた。中西氏の結婚の定義によれば、こうした近代以前の結婚は結婚でなくなってしまう。

 ジェームズ・グレイス博士は、現代アメリカ人の結婚に対する価値観は、個人主義的な幸福の追求に重きを置くあまり、社会全体の利益に対する深い関心をまったく欠いた状態になっており、これが離婚の増大に代表される現代社会の病理の原因であると分析している。そして社会に貢献することを主要な目的とする統一教会の結婚観から、アメリカ社会は多くを学ぶことができると評価しているのである。

 中西氏は、祝福は結婚であって結婚でなく、社会変革運動であり、宗教実践であるとしているが、そもそもこれらを分離して考えること自体が彼女の分析の限界である。統一教会の祝福は紛れもなく結婚であり、それと同時に社会改革運動であり、宗教実践でもあるのだ。端的に表現すれば、宗教的信仰を動機として、社会を変革するための結婚なのである。彼女が「祝福は結婚であって結婚でない」と主張するのは、彼女の結婚の定義が世俗的で個人主義的なものであるため、その定義に統一教会の祝福が当てはまらないということに過ぎない。

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