書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』179


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第179回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第177回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入った。これは中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分だ。今回は日曜日の礼拝の内容の記述から始めることにする。

 中西氏は、A教会の2007年8月26日の週報を示しながら、その礼拝は「形式的にはプロテスタント教会の礼拝と変わりなくとも、内容には多少違いが見られる。」(p.474)としている。やはり彼女は社会学者なので神学にはあまり関心がないのだろうか、神学的にはかなり大きな違いを「多少」の違いとしている。
「プロテスタント教会の礼拝と明らかに違う点は、①信仰告白が使徒信条ではなく、『家庭盟誓』であること、②讃美歌が統一教会の聖歌であること、③マルスム訓読があることであろう。週報を見るだけではわからないが、祈りの最後の部分が「……を主のみ名によって祈ります』ではなく、『……を真のご父母様を通して祈ります』になることも異なる。」(p.475)

 まず、使徒信条の部分について詳しく説明しよう。中西氏はこれについて、「①信仰告白はイエス・キリストに対する自己の信仰を明確な言葉をもって言い表すものであり、キリスト教会では、キリスト教の教義の要約いわばエッセンスにあたる使徒信条が用いられる。統一教会ではイエスの十字架の死を復帰摂理における失敗であり、イエスは結婚して子孫を残すべきだったと捉えているのだから使徒信条は用いられまい。」(p.475)と解説している。大きく間違っているわけではないが、細部においては指摘すべき点がある。

 まず、「使徒信条」が教派を越えた最も普遍的な信仰告白であることは事実だが、信仰告白はこれに限らない。「信条」とは一般に古代のものを指し、使徒信条のほかにもニカイア・コンスタンティノポリス信条などがある。一方で「信仰告白」と言うときは、宗教改革以後のものを指す。信仰告白はプロテスタントの教派によって異なっており、福音主義(ルター派)教会ではアウクスブルク信仰告白、シュマルカルデン条項、和協信条、バルメン宣言などが用いられる。カルヴァンの流れを汲む改革派教会では、第二スイス信仰告白、フランス信仰告白、ベルギー信仰告白、スコットランド信仰告白、ウェストミンスター信仰告白などが用いられる。また、日本基督教団では1954年に「日本基督教団信仰告白」が制定されている。このように、一言で「信仰告白」と言ってもその内容は多様であり、必ずしもすべてのキリスト教会で使徒信条が唱えられるわけではない。

 次に使徒信条の中身について紹介しよう。教派によって日本語訳も異なるが、以下は2004年2月18日に日本カトリック司教協議会が認可した日本語訳である。信徒信条は大きく分けて三つのポイントからなっている。
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。(①)
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。(②)
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。(③)」

 ①では父なる神に対する信仰が告白され、創造論が示されている。②では子なる神に対する信仰が告白され、キリスト論、復活論、終末論が示されている。③では聖霊なる神に対する信仰が告白され、教会論、救済論が示されている。このように信徒信条は「父と子と聖霊」という三位一体型の構造を持っているのである。

 それでは統一教会ではなぜ使徒信条が唱えられないのであろうか? それは基本的な神学的枠組みが全く異なっているからである。①における創造論においては大きな違いはなく、天地の創造主である全能の神を信じることは同じである。しかし②において、イエス・キリストが聖霊によっておとめマリヤから生まれたことを統一教会では認めていないし、十字架が神の予定であったことも、超自然的な終末の到来や最後の審判も信じていない。③においては、肉体の復活や、肉体による永遠の命(栄化)という考え方も否定されている。したがって、使徒信条は統一教会においては文字通りには受け入れがたいものなのである。これは単に、「統一教会ではイエスの十字架の死を復帰摂理における失敗であり、イエスは結婚して子孫を残すべきだったと捉えている」というような単純な問題ではなく、神学全体の構造が根本的に異なると言ってよいだろう。

 中西氏は、家庭盟誓の内容は「統一教会の教義を要約したものである」(p.475)と言っており、だからこそ「信仰告白」として位置づけられているのだが、使徒信条と比較してみると、そもそも文章の目的に大きな違いがあることが分かる。

 キリスト教会において様々な「信条」や「信仰告白」が作成されたのは、異端との闘争や教派同士の神学論争の過程において、自分自身の信仰の内容を明確化する必要に迫られたからである。それは何が間違いで何が正しい信仰か、何が異端で何が正統であるかを明確にする必要から生まれたものなので、「何を信じるか」が列挙されたものになっているのである。

 一方で、以下に示すように、「家庭盟誓」には何を信じるかは表現されておらず、むしろ私が「何を成し遂げるか」に関する決意が表現されているのである。少なくとも「家庭盟誓」は、異端との闘いや教派同士の神学論争の結果として生まれたものではない。
「一、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します。
二、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、天の父母様と真のご父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の家庭の道理を完成することをお誓い致します。
三、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成することをお誓い致します。
四、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、天の父母様の創造理想である天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓い致します。
五、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一に向かい、前進的発展を促進化することをお誓い致します。
六、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、天の父母様と真のご父母様の代身家庭として、天運を動かす家庭となり、天の祝福を周辺に連結させる家庭を完成することをお誓い致します。
七、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本然の血統と連結された為に生きる生活を通して、心情文化世界を完成する事をお誓い致します。
八、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、天一国時代を迎え、絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、神人愛一体理想を成し、地上天国と天上天国の解放圏と釈放圏を完成することをお誓い致します。」(以上は2013年に改訂されたバージョンであり、中西氏の紹介した文言と異なっている)

 中西氏は、「プロテスタント教会での信仰告白がイエス・キリストへの信仰を言い表しているのに対し、統一教会の信仰告白は文鮮明と韓鶴子への信仰を言い表している。『……することをお誓い致します』は、いうまでもなく文鮮明と韓鶴子に対してである。」(p.475)と言い切っているのが、これは間違っている。一体いかなる根拠に基づいて、彼女は「いうまでもなく」という強調までしてこれを断言するのであろうか?

 プロテスタントの信仰告白は、上記の説明から分かるように、父と子と聖霊という三位一体の神に対する信仰を言い表しているのであって、イエス・キリストに対する信仰はそのうちの「子」の部分にしか当たらないので、中西氏の解説は間違いである。

 さらに、「家庭盟誓」は第一に神に対して誓うものであり、次に神と人間の仲保者である真の父母(文鮮明総裁と韓鶴子総裁)に誓い、同時に自分自身の良心に対しても誓っているのである。

 中西氏の解説は、キリスト教においても統一教会においても、天地創造主である神が欠落している。これは神に対する信仰が中西氏に欠如していることが原因であるか、そうでなければ、統一教会の信仰を意図的に「人間崇拝」として描こうとした悪意ある歪曲に他ならない。

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