書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』175


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第175回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第169回から中西氏がA教会で発見した任地生活の女性信者に向けた「15ヶ条の戒め」と呼ばれる心構えの分析に入った。中西氏はこれを、日本人女性信者の合理的な判断力を抑圧し、信仰的な発想しかできないよう仕向けているかのようにとらえているが、そこで述べられている戒めは世界の諸宗教が伝統的に教えてきた内容であり、同時に人間が幸福に生きていくための心構えと言えるものも含まれている。先回は⑫自分を振り返る時間をもつこと、を紹介し分析したので、今回はその続きとなる。

13.自分の家庭が誰に対しても模範となること
 神を信じる者が他者に対する模範となるべきであるという教えは、キリスト教信仰の根幹であり、それはイエス・キリストの「山上の垂訓」の「地の塩、世の光」という教えの中に最も代表的に表されている。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書 5:13-16)

 イエス・キリストによるこの有名な説教の中で、地は現世を意味する。そして塩は、現世に対するキリスト者の役割を意味している。塩は調味料としてはいうまでもなく、防腐剤としても昔から珍重されてきた。そのため、多くの文化の中で塩は宗教上の清めの役割を担ってきた。旧約聖書も、神殿の供え物には塩を添えるように命じていた(レビ記 2:13)。防腐の働きを持つことからか、神と民との間に交わされた神の側からの永遠の約束を表すために、とこしえに変わらない「塩の契約」という表現が用いられることもある。塩は世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保つ役割を果たす。イエスは弟子たちに対し、地上でこのような役割を果たすように教えたのである。

 「世の光」という言葉も、「世の中の模範たれ」とキリスト教徒たちを激励する表現である。イエス・キリストが光の源泉であり、そのイエスに従う弟子たちもまた世の中を照らす光の役割を果たしているという意味である。山の上にある町、燭台の上のともし火は隠れることができない。これも、万人が仰ぎ見るような模範的な存在となれという意味である。「地の塩、世の光」という譬えの最後にイエスが語った結論は、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」である。これはまぎれもなく、キリスト者に対して「世の中の模範たれ」と命じている教えであると言える。

 使徒パウロは、テサロニケの信徒に対して、以下のように語っている。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。」(テサロニケ人への第一の手紙 1:6-7)ここでは、テサロニケの信徒たちは苦難の中でも感謝して歩み、キリストに倣うことによって、他の信者たちの模範となったことが語られている。パウロはこうしてテサロニケの信徒たちを称賛しているのであり、他の信徒たちに対して模範となることを勧めているのである。。

 テモテへの手紙に記されている模範的な監督の要件は、より具体的である。監督は信徒たちを導く立場であるので、道徳的に立派で品行方正でなければならないというのである。
「さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。」(テモテへの第一の手紙 3:2-5)

 このように、「他者に対する模範となること」はキリスト教倫理の根幹をなすものだが、統一教会の倫理の特徴は、「自分の家庭が誰に対しても模範となること」という戒めからも分かるように、模範となる主体が「個人」ではなく「家庭」であるとされていることである。つまり、「家庭」が一つの単位となって世の中に対する模範となり、善なる影響を与えることが期待されているのである。祝福家庭は、自らの家庭において神の愛を体現し、その愛を外の社会に拡大することによって社会を善化する使命があると教えられている。こうした祝福の理想は、アメリカの宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士の著作「統一運動における性と結婚」において、統一教会の信仰の特徴として紹介されている。

 グレイス博士によれば、性と結婚に関する価値観に関する限り、アメリカ人は極めて個人主義的な価値指向を示すようになってきているという。そしてその傾向は結婚そのものに対しても、社会一般に対しても、肯定的な利益をもたらさないという。抑制のない個人主義は、あらゆる人間の共同体の結束を弱体化させ、最終的には壊滅させてしまうような遠心力として働くからである。

 統一運動の理想は、こうした個人主義に対抗し、第二次世界大戦終了以前のアメリカ社会に潜在していた結婚に関する価値観を、強い宗教的献身の枠組みの中で復活させたものであるという。そこでは、結婚・家庭はそれ自体が目的ではなく、社会の全般的な福祉に貢献することを通して、神に仕えるために存在すると見られている。個人的な目的は全体目的の下位にあると見られているのである。

 グレイス博士は、アメリカの主流の教会は、とりわけ結婚に関しては統一教会の理想から多くを学ぶことができると主張している。ローマ・カトリックは結婚を秘跡と見なしており、主流のプロテスタント教会は結婚「そのもの」を高く評価しているが、そのどちらも結婚が社会全体との関係において果たす倫理的な役割の重要性については明確に提示してこなかったというのである。主流の教会が教えている結婚に関する倫理は、すべてでないにしても、そのほとんどがカップルの私的な世界と、彼らが責任をもつべき家庭にのみ関わるものである。

 典型的なプロテスタント式の結婚式で牧師が新郎・新婦に対して語る訓戒の言葉は、愛と貞節を夫婦関係における核心的な価値観として強調しているが、結婚に伴う責任を家庭の外にまで拡大していこうという試みはない。教会の価値観は、夫と妻の私的な世界に対する信仰の意義に関するものであり、その範囲は狭い家庭になりがちだということだ。新約聖書において強調されている、「地の塩」「世の光」としてのクリスチャンの責任という概念は、結婚に対する教会の理解と関りにおいて、真に重要な位置を持っていないというのである。それに対して、統一教会では「世界に奉仕する祝福家庭」という明確な価値観が打ち出されていることが大きな特徴となっている。

 このように模範となることによって世の中を善化するという考え方は、儒教の思想の中にも見ることができる。孔子は『論語』為政編において「為政以徳」(政を為すに徳を以ってす」と説いている。それは君主が徳で国家・人民を治めることによって、人民を正しい方向に導いて国家は調和されて安定するのであり、国家統治の要は法令や刑罰、軍隊ではなく、道徳や礼儀であるという意味である。孟子もこの思想を継承して、刑罰や軍事などの力をもって国を治めることを「覇道」とし、道徳や礼儀などの徳をもって国を治めることを「王道」とした。

 儒教の経典は「修身斉家治国平天下」について、以下のように教えている。
「心正しくして后身修まる。身修まって后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まって后天下平らかなり。天子よりもって庶人に至るまで、壱是に皆修身をもって本と為す。その本乱れて末治まる者は否ず。」(儒教 大学)
「子曰く、学を好むは知に近く、力行は仁に近く、恥を知るは勇に近し。この三者を知れば、則ち身を修むる所以を知る。身を修むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。」(儒教 中庸第二十章)

 これらは、人の心と体が一つとなり、個人として模範になれば、家庭も模範的になり、家庭が模範的であれば天下国家を治めることができるという意味において、「自分の家庭が誰に対しても模範となること」という戒めと本質的に同じことを述べている。

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