書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』76


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第76回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、新生トレーニングにおいて説かれる実践的な信仰規律について説明しているが、それを順番に引用しながら、彼の批判に対して反論することにする。
「(1)アダム・エバの教訓。エバがサタンに誘惑され、不倫・姦淫を行ったがゆえに人間は堕落した。先に堕落したのがエバ、女性であり、次いで、アダム、男性を誘った。その結果、人類はエデンの園から追われ、堕落した状態から神への復帰の摂理的歴史を歩むことになったとされる。エバはアダムよりも罪が重いので、男性に仕えなければならない。この教説が信仰生活に適用されると、男女は文鮮明=神が許可する祝福まで禁欲を守ることが最重要の規律となる。若い男女数十名が同じ屋根の下で一ヶ月の共同生活をしても、互いに好意を抱くことすら許さない。また、青年期の若者にとってプライバシーを完全に奪われることは性的にも苦痛だ。心身両面から性を規制することによって、受講生の訓育が進むことは論を待たない。」(p.247)

 この記述には多くの誤りが含まれている。そもそも統一教会にはエバはアダムよりも罪が重いので男性に仕えなければならないという教義や考え方は存在しない。もしそうであれば、男女平等が叫ばれ女性の権利が主張される現代社会にあって、統一教会は「男性天国」の社会となり、多くの男性たちが女性に仕えられるために統一教会に入教するはずである。しかし、実際には日本の統一教会においては男性信徒よりも女性信徒の方が数が多い。人口比から言えば、統一教会は男性よりも女性にとって魅力的な宗教ということになる。櫻井氏の主張するような女性蔑視の教義を持った宗教団体に多くの女性たちが入信し、信仰生活を継続しているというのは不合理であり、現実との間に大きな齟齬がある。

 また、女性が男性よりも罪深いということと、祝福まで禁欲を守ることの間には論理的な関係はまったくなく、説明として意味を成していない。統一教会で祝福を受けるまで禁欲生活が奨励されることは事実だが、これは女性だけでなく男性にも等しく要求されている内容であり、その点に関しては男女は平等である。統一教会においては、男性と女性のどちらが罪深いかがとりたてて強調されることはない。男も女も等しく堕落した罪深い存在であり、その罪を精算するための蕩減条件として禁欲の道を歩まなければならない点も同じである。細かいことだが、櫻井氏は「文鮮明=神」と記載しているが、統一教会のキリスト論においてはメシヤは神ご自身ではなく、人間始祖の立場に立つ「真の人間」であるため、この記述も神学的には誤りだ。

 さて、ここで最も本質的なテーマである新生トレーニングにおける「禁欲」や「恋愛禁止」についてしばらく考察することにする。櫻井氏はこれらが若者にとって苦痛であることを強調し、あたかも人権侵害であるかのように記述しているが、実際には恋愛やセックスを禁止している団体は統一教会に限らない。AKB48をはじめとするアイドルグループのメンバーや、NHKの「歌のお姉さん」に対しては恋愛禁止が課せられていることはよく知られている。これはアイドルとしての彼女たちの価値を守るための「商業目的」であったり、子供向け番組の出演者がイメージを壊さないためという理由があり、当人たちはそれを納得して禁欲生活を行っているのである。(中には秘密でそれを破る者もいるが、統一教会の信徒の中にも禁欲を守れない者がいるので事情は同じである。)

 このことは、人は何らかのより大きな目的のために、「禁欲」や「恋愛禁止」を自分の意思で受け入れることがあり得ることを物語っているが、統一教会においてはそれが「宗教的目的」であると理解すれば、それも一つの合理的な選択であることが分かるだろう。宗教的目的で禁欲生活をする事例は枚挙にいとまがなく、まさか宗教学者である櫻井氏がそれを知らないということはありえないだろう。原始仏教においては出家信者は徹底的に性欲を否定することが要求されたし、カトリックの修道士、修道女、および司祭などの聖職者になる者は生涯にわたって禁欲生活を送ることになる。これらは宗教的目的による「禁欲」や「恋愛禁止」であり、現実には苦痛を伴うものであるが、これを人権侵害であるとは櫻井氏は言わないであろう。

 米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士の著作『統一運動における性と結婚』は、この問題を真正面から扱った客観的な研究書である。グレイス博士の観察によれば、統一教会における未婚の男女は恋愛や性交渉が全面的に禁止された極めて禁欲的な信仰生活を営んでいるが、これは結婚を神聖なものにするという究極的な目標のための準備期間としての意味をもっているという。グレイス博士が実施したインタビューの結果によれば、すべての統一教会のメンバーが「婚前の性交渉はそれ自体悪であり、未成熟な段階のセックスであるため、そこには真の愛は実現されない」と答えたと言う。すなわちメンバーにとって結婚前の禁欲生活は、自分自身の愛を清め、成長させるための貴重な期間であり、この期間に純潔を守ることは結婚を成功させるための絶対的な条件として認識されているのである。

 グレイス博士が観察したアメリカの統一教会においては、入教したメンバーは最初の三年間、若い男女が共に活動するような環境下において、禁欲生活をすることが義務づけられているという。このような環境下では、当然異性に対する欲望が芽生えるのであるが、それらは、①祈祷、②自己の鍛錬、③活動への没頭、などの手段によって抑制されるという。これらは基本的に個人の努力であって、環境的に男女を分離することによって性的なトラブルを避けている修道院とは驚くべき違いであると同博士は指摘する。統一教会がこのような環境下で性的なトラブルを抑制することに成功している秘訣は、比較的プライバシーが抑制された共同体での生活と、未婚の男女はお互いに兄弟姉妹であるという家族的な一体感を形成している点にあると、同博士は分析している。

 このような禁欲を実践する共同生活に入ることによって、メンバーは過去の習慣性を断絶し、祝福を受けて結婚するに値するだけの内的な資質を磨くために努力する。アメリカの統一教会においては、教会に来る前に性的に活発だった者や同性愛者だった者も多数いるのであるが、彼らは宗教的な価値観を共有した集団の中で一定期間生活することを通して、過去の習慣性を克服する戦いをするのである。グレイス博士の研究を通して、櫻井氏にとっては「苦痛」としてしか感じられなかった若い男女の禁欲生活が、将来の結婚を神聖なものとするための価値あるものとして認識されていることが理解できるであろう。

 日本の統一教会においても、未婚の男女は恋愛や性交渉が全面的に禁止された極めて禁欲的な信仰生活を営んでいる。これはグレイス博士が研究したアメリカの教会と同じく、結婚を神聖なものにするための準備期間としての意味をもっている。統一教会信者の独身時代の目標は、第一に心身を清く保ち結婚に備えることであり、第二に愛と奉仕の生活を通して人格を磨き、良き夫、妻、親となるための準備をすることである。これは結婚に対する日本の保守的な考え方とも一致するもので、なんら社会的な批判を浴びるべき内容ではない。

 統一教会に魅力を感じる若者たちには、社会全般に蔓延する「性の乱れ」に幻滅し、不満や不安を感じている者が多い。入信する以前に性経験があったかどうかは別として、性的な事柄に対して潔癖な価値観を持っている人は、統一教会の教えに魅力を感じるのである。もともと「清い結婚がしたい」「不倫や離婚などの不安のない、幸福な家庭を築きたい」というニーズを持っている人に対して、「祝福式」という形で示された統一教会の結婚の理想が、一つの回答を提示しているので、若者たちはその理想を実現するために「禁欲生活」を自らの意思で選択するのである。

 これは「自由恋愛至上主義」という現代の日本社会の風潮に対する一つのアンチ・テーゼとして機能していると言える。そもそも、デートとプロポーズを経て結婚に至るという方法は、特に20世紀のアメリカで発達し、それが日本に輸入されたものである。しかし、
欧米諸国の高い離婚率や、日本における離婚率の上昇などを考慮すれば、それは必ずしも理想的な配偶者選択の仕組みと言うことはできない。一時的な恋愛感情が幸福な結婚を保証しないならば、もっと堅固な土台の上に結婚を築きたいと願う者が現れても何ら不思議ではない。統一教会の信徒たちは、「信仰」という土台の上にそれを築こうとしているのである。

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