日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ07


 さて、日本における仏教受容の一つの特徴として、「神仏習合」があります。これは、もともとあった日本の神道と、外国からやってきた仏教が混ざり合っていくことです。仏教が日本に受容される過程において、土着の信仰である神道としだいに融合していき、神と仏を一緒に祀るようになりました。これが日本では古来からずーっとあるんですね。一神教の人からすればとても信じられないことなんでありますが、「神仏習合」が日本の伝統です。

 8世紀ごろから、神社に付属して「神宮寺」という仏教寺院が建てられるようになりました。一つの敷地の中に、神社とお寺が両方あるということです。何の違和感もなくそういうことをやっていたわけです。平安時代中期になると、仏と神の関係に関する新しい解釈が生まれて、「日本古来の神々は、仏が衆生救済のために姿を変えて顕われた存在である」という考え方が一般的になってきました。これを「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」といいます。「本地」とは本体あるいは原型という意味で、「垂迹」とは化身あるいは変形という意味です。すなわち、「本来は仏であったものが、日本人の前では神に形を変えて現れて、仏教が伝来する前から信仰されていたんだ。したがって、仏教と神道は根っこは同じなんだ。」という理論構築をしたということです。

 これにより、日本の神道と仏教はずーっと共存体制のまま、江戸時代が終わるまで来るんですね。ところが明治時代になると急に、「天皇陛下の宗教は神道である、仏教と混ざってはいけない!」ということで、いきなり「神仏分離令」が出されるようになります。これは神道と仏教の人為的な分離です。ですから、日本の伝統というのは結構、宗教を人為的にいじる伝統だったということになります。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT07-1

 さて、このように中国ならびに朝鮮半島から仏教を学んだ日本でありましたが、平安時代になると、日本独自の仏教の展開というものが現れるようになります。平安時代の代表的な僧侶といえば、平安初期に現れた二人の天才僧侶として、最澄(767~822)と空海(774~835)が有名です。最澄と空海は、実は同時代の人物です。最澄の方が7歳ほど年上です。実は遣唐使と共に唐に渡ったときも、二人は同じ船に乗っていました。それぐらいに近い関係だったわけです。私が復帰されたのが1983年なんですが、1984年に「空海」という映画が公開されました。当時、私は関心があって見に行きました。空海は北大路欣也が演じていて、最澄は加藤剛が演じていました。

映画「空海」

映画「空海」

 さて、同じ遣唐使船で唐に渡ったとき、最澄は空海よりも7歳年上であったために、既に空海よりも僧としての身分が高かったんですね。そのため最澄は唐に短期間しか滞在することができず、当時求められていた密教の経典や秘儀を完全に習得して日本に持ち帰る時間がなかったんですね。一方で空海は当時は無名の僧であったため、無期滞在ということで好きなだけ唐にいてよいということになったわけです。そこで彼は留学僧として長期滞在し、本格的な密教の経典と秘儀を会得して帰国したわけです。当時、日本で求められていたのは、密教の秘伝を持って帰ることでした。最澄が中途半端なものを持って帰ってきたのに対して、空海は完全なものを持って帰ってきたので、ここで空海の株が上がってしまうわけであります。そこで最澄は、年も身分も下である空海のもとに行って頭を下げて教えを乞い、密教の灌頂を受けるわけでありますが、やがて二人は袂を分かっていくことになります。後に最澄が開いたのが天台宗となり、空海が開いたのが真言宗となり、平安初期における日本の仏教の二つの大きな柱となるわけです。

 さて、ここで最澄の歩みについてまとめておきましょう。彼は14歳で出家し、19歳で東大寺で受戒し、本格的な僧となります。彼は官僧として南都六宗の教義を学ぶのでありますが、それに満足できず、比叡山にこもるようになります。いまでこそ比叡山には延暦寺という立派なお寺がありますが、当時は山籠もりするところだったわけです。804年、36歳のときにに遣唐使と共に唐に渡り、天台山で天台教学を学び、大乗仏教の戒律である菩薩戒を受けます。その後、不完全ながら密教を修め、約1年間留学した後に帰国します。帰国後、天台宗を開宗し、僧侶に菩薩戒を授ける大乗戒壇を設けるために朝廷に働きかけるわけであります。

 当時はまだ、奈良の仏教が権威でした。ですから、最澄は奈良の仏教である南都の諸宗と対立して激しく論争しました。奈良時代に鑑真がもたらした戒律は上座部仏教のものだったので、細かくて厳しく、一般大衆には到底守れないものでした。そこで最澄は、より簡略化された菩薩戒を授けることを主張したわけです。その主張は最澄の没後まもなく認められ、比叡山に戒壇が設立されます。こうして天台宗の伝統が出発します。

 さて、天台宗とはどういう宗派であるかといえば、中国にもともとあった天台教学を基に、密教の要素、禅の要素、および戒を融合した、とても総合的な仏教であると言えます。主な経典としては、「法華経」(妙法蓮華経)があります。本山は大変有名な比叡山延暦寺で、滋賀県にあります。比叡山延暦寺は長らく日本の仏教界における最高権威として君臨し続け、後に法然、親鸞、道元などの「新仏教」の開祖は、みな最初はこの比叡山で学びました。その意味で、比叡山延暦寺と天台宗は日本仏教の母胎であり、ゆりかごのような存在であるということになります。

 天台宗の教えは、誰もが仏になれる種を持っているという「悉有仏性」(しつうぶっしょう)を基本としています。さて、やがて比叡山は南都(奈良)と並ぶ仏教勢力となり、平安時代に発展して大きな権威を持つようになります。権威を持つと大体どうなるかというと、次第に他宗を弾圧したり、僧兵を持つ武力勢力になったりするわけです。ですから天台宗のイメージというのは、日本仏教におけるカトリック教会みたいな感じですね。最も伝統と権威があって、そこからいろんな宗派が分派して出てくるということです。

 次に空海の歩みについてまとめてみましょう。実は、空海の幼いころのことはあまりよく分かっておりません。讃岐国(香川県)の豪族の家に生まれ、若き日は私度僧として、すなわち官僧ではなく、衆生の僧として修行を積んだと思われます。804年、31歳のときに唐に渡り、3か月で梵語を修め、密教の第7祖・恵果(けいか)の下で学び、密教のすべてを伝授されました。そして、恵果から譲られた多くの経典、仏像、仏画、法具のすべてを船に積み込んで帰国しました。帰国後、密教を体系化し、真言宗を開きました。816年には、高野山の金剛峰寺を開きます。ここを本山として日本の真言宗が出発するわけです。823年には、嵯峨天皇より京都に東寺を賜わり、真言密教の拠点としました。

 空海は仏教だけではなくて、唐の最新技術を駆使した土木事業まで学んで来るんですね。それで多くの土木工事を指揮することを通して社会貢献をしました。日本最大の溜池である満濃池の改修工事も、空海が持って帰った技術によってなされました。真言宗では、弘法大師・空海は死んだのではなくて、62歳のときに高野山で「入定(にゅうじょう)」したと考えられています。すなわち、永遠の禅定(瞑想)を奥の院でやっているのだということです。

日本仏教史と再臨摂理への準備挿入PPT07-2

 真言宗とはどういう宗教かというと、本尊は大日如来です。これは宇宙そのもの、万物の源であると信じられています。主な経典は、大日経と金剛頂経です。教えの中心は「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」です。これは、人間が現世においてそのまま仏になれるんだという教えです。真言宗の実践として非常に有名なのが護摩供養です。「護摩(ごま)」というのは、「焚く」という意味の「ホーマ」の表音であって、日本語では「ごま」と言います。この写真にありますように、護摩を焚いて祈祷することによって願いをかなえるのが、密教の代表的な祈祷法であると言えます。

 このように、天台宗と真言宗が平安初期における日本の仏教の大きな柱として立てられました。

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