書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』173


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第173回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第169回から中西氏がA教会で発見した任地生活の女性信者に向けた「15ヶ条の戒め」と呼ばれる心構えの分析に入った。中西氏はこれを、日本人女性信者の合理的な判断力を抑圧し、信仰的な発想しかできないよう仕向けているかのようにとらえているが、そこで述べられている戒めは世界の諸宗教が伝統的に教えてきた内容であり、同時に人間が幸福に生きていくための心構えと言えるものも含まれている。先回は⑦疑わないこと、⑧祝福家庭は先輩家庭に仕え、後輩の家庭を愛すること、の二つを紹介し分析したので、今回はその続きとなる。

9.公金を恐れること
 ここではまず「公金」の意味を説明する必要があるであろう。世間一般で「公金」と言えば、国または地方公共団体がその目的を達成するために所有する金銭のことである。これを公務員等が私的目的のために使うことを「公金横領」といい、刑法上の犯罪となるが、「15ヶ条の戒め」が言っている「公金」はそれと意味が異なる。

 統一教会で言う「公金」の意味を理解するためには、まず万物の主管に関する信仰生活の指導のあり方を理解する必要があるであろう。統一教会では、万物が存在する理由は、人間を喜ばせるためであると教えている。すなわち、神は人間が喜んで暮らす生活環境を築くために万物を創造された。神は人間を万物の主人として創造され、万物を主管することを祝福された。創造本然の人間の万物主管は、内的主管性(愛による心情的主管)と外的主管性(科学による主管)の両面が合わさったものであり、あたかも神ご自身が主管されるがごとく、万物そのものの価値を最高に発揮させることであった。しかし、人間が堕落することにより、このような創造本然の万物主管ができない状態に陥ってしまった。

 人間は、神の愛による完全な主管ができて初めて、万物を所有する資格が与えられる。創造本然の人間にはこのような資格があったが、堕落人間の所有はとりあえず管理を任されているということに過ぎない。愛のない主管は、我欲(サタン)による利己的主管であり、真の万物主管ではない。したがって、真の愛を持った人、公的な人の所へは万物が集まってくるが、そうでない人の所からは逃げていくようになっているのである。

 統一教会で言う「公金」とは、蕩減条件を払って堕落世界から神側に復帰されたお金のことを言う。具体的には、教会および神の御旨を進めるための団体で管理し、神の御旨を進めるための活動に使われるお金のことを指す。これは神が主管するお金なので、公的心情で公的使用をしなければならないと教えている。これを使う場合にはきちんと清算し、報告する義務がある。こうした公金を私的に用いることを「公金横領」と言い、サタンが讒訴する行為となり、宗教的な罪となる。「公金を恐れること」という戒めは、こうした脈絡の中で、公金を私的に用いて公金横領の罪を犯すことを恐れるように説いているわけである。こうした戒めは、金銭に対する禁欲的な態度を示しているが、これと同様に多くの伝統宗教は、苦しみや悪は過度の欲望もしくは利己的な欲望によって引きおこされると教えている。そこには貪欲が魂を支配し、無知を誘発し、破滅へと導くという基本思想があるのである。「公金を恐れること」という戒めも、お金の誘惑が信仰を狂わせるのを防ごうとしている点で、同じ伝統の上に立っていると言える。

10.聖日礼拝を欠かさないこと
11.家庭礼拝を一週間に一度位は行うこと
 この二つはどちらも礼拝に関することである。教会に集まって礼拝をささげるにせよ、家庭で行うにせよ、礼拝を守ることが信仰生活の基本であることはキリスト教において普遍的に教えられている。キリスト教における礼拝は、狭義には教会における儀礼一般を指すが、より広い意味では神に対する奉仕行為を指す。これは神殿に詣でることを礼拝と考えていたユダヤ教に対して、新しい礼拝の概念を提示したということができる。形式ではなく内面がより重要であるという主張である。新約聖書は、礼拝の意義を以下のように説いている。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書 4.21-24)。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ人への手紙12.1)

 礼拝とは、人間が全人格を傾けて神を拝むことである。それは神と交わり、神を知り、愛し、賛美する機会であり、神からの祝福を受ける機会である。神ご自身が、人間に対して礼拝を求めているとキリスト教では理解されている。したがって、人間には神を礼拝する義務があるのである。

 イスラム教における礼拝は「サラート」といい、カアバの方角へ向かってお祈りすることで、イスラム教の五行のひとつである。礼拝の方法には一定の決まりがある。普段は家庭などで個人で行ってもいいが、イスラムの祝日である金曜日には、5回のうち、1回のお昼の礼拝は、モスクに集まってみんなで行うことが奨励される。イスラム教では1日5回の礼拝を行う。各礼拝のおよその時間帯は、1回目は夜明け、2回目は夜明け以降、3回目は影が自分の身長と同じになるまで(お昼)、4回目は日没から日がなくなるまで、最後は夜となっている。礼拝が始まる時間はムアッジンと呼ばれる人によって告げられるが、これを「アザーン」という。昔はモスクの尖塔(ミナレット)に上りその上から「アザーン」が行われたが、現在はスピーカーが取り付けられている。

 イスラム教の経典「クルアーン」では、礼拝の重要性が以下のように語られている。
「まことに礼拝は、人を醜行と悪事から遠ざける。なお最も大事なことは、神を唱念(ズィクル)すことである。(イスラム クルアーン 29.45)

 統一教会における礼拝の形式は、外形的にはプロテスタント教会の礼拝に近い。通常は日曜日に「聖日礼拝」が行われるが、その意味について『伝統』(光言社)は以下のように語っている。
「お父様は、礼拝は単なる会合ではなく、神とサタンの闘いの場であると教えておられます。草創期には、多くの教会員がそのような闘いのし烈さを証しています。聖日礼拝を通して私たちは、心を善と悪とに分立し、自らを神に捧げることができます。過ぎ去りし1週間を悔い改め、新しい週の決意を固めるための時です。」
「統一教会の聖日礼拝は他のキリスト教会が行っているのと同じような形式でなされます。韓国の教会員は、お父様の説教を聞くための心の準備をする重要性を感じ、いつもより早めに教会に到着するようにします。祈祷や聖歌によって聖なる雰囲気をつくるために、早く集うのです。」(以上、『伝統』p.23-24より)

 文鮮明師は、聖日礼拝の重要性と同時に、それに参加する準備や心構えの重要性を繰り返し説いており、そうした指示は『み旨の道』の中に以下のように示されている。
「聖日礼拝三日前から準備しながら、その日、万民のため祝福を与えるよう精誠を尽くさねばならない。」
「我々食口は教会の看板であり、神様の看板である。礼拝時間はサタンの鎖を切って神の世界に導いてくるための戦いの時間である。生命を復活させるために誠を尽くす深刻な時間であるので絶対に礼拝時間を破ってはいけない。礼拝時間に怠けると恵みを奪われてしまう。」
「礼拝の時間に遅れてでるときには、頭を上げることができないほど悔い改めの心情をもってでなさい。讒訴を避ける道は死ぬほど苦労するしかない。み旨のために死ぬと覚悟し、涙を流すのに対して誰が讒訴しようか。」
「統一教会の生活は尊い式典の連続である。礼拝や敬礼の時間は王に会う時間と比較できようか。」

 礼拝に参加することは一つの宗教的義務であるが、同時に人間の幸福度とも相関関係があることが調査によって分かっている。米世論調査団体”Pew Research Center”によると、毎週宗教的礼拝に出席している人は月に一回、あるいは全く礼拝に出席していない人よりも幸せを多く感じているということが明らかになったという。同調査によると、毎週教会に通っている人々のうち43%、月一回以下しか通っていない人々のうち31%がとても幸せであることが明らかになった。また教会にほとんど通っていない、あるいは一度も通っていない人の中ではたったの26%の人しかとても幸せであると感じていないという。教会出席度と幸福の関係については、全ての宗派で同じ関係が明らかになったという。例えば全てのカトリック教徒のうち教会に毎週出席する人のうち38%、あまり教会に通わない人のうちでは28%がとても幸せであることがあきらかになったという。このような人々の幸福度を調べる調査は1972年から行われているが、調査結果は開始以来一致した傾向を示しているという。

 聖日礼拝と家庭礼拝の実践を勧める「15ヶ条の戒め」は、結果的に信徒たちの幸福度上昇に貢献しているのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク