ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳73


第8章 未来:いくつかの個人的考察(4)

 さらに、主流の教会は、とりわけ結婚に関しては統一教会の理想から多くを学ぶことができると私には思える。ローマ・カトリックは結婚を秘跡と見なしており、主流のプロテスタント教会は結婚「そのもの」を高く評価している。(注4)しかしながら、そのどちらも結婚が社会全体との関係において果たす倫理的な役割の重要性については明確に提示してこなかったのである。主流の教会が教えている結婚に関する倫理は、すべてでないにしても、そのほとんどがカップルの私的な世界と、彼らが責任をもつべき家庭にのみ関わるものである。
「私はあなたがた二人が、神のみ前に立ち、愛と忠誠のみが幸福で揺るぎない家庭の礎となり得ることを忘れないよう求め、また命じます。あなたがたがいま担おうとしているものほど、優しい人間の絆はなく、神聖な誓いはありません。もしこれらの厳粛な誓いが破られることがなければ、そしてもしあなたがたが天の父のみ旨を行おうと変わりなく努めるならば、あなたがたの人生は喜びに満ち、あなたがたが築こうとしている家庭には平和が宿るでしょう。」(注5)

 典型的なプロテスタント式の結婚式で牧師が新郎・新婦に対して語るこの訓戒の言葉は、「愛と貞節」を夫婦関係における核心的な価値観として強調するが、結婚に伴う責任を家庭の外にまで拡大していこうという試みはないのである。また、結婚前カウンセリングに関する私の知識から言えるのは、教会の価値観は、将来の夫と妻の私的な世界に対する信仰の意義に関するものであり、その範囲は狭い家庭になりがちだということだ。

 世界の中での、そして世界のためのクリスチャンの責任という新約聖書の概念は、結婚に対する教会の理解およびアプローチにおいて真に重要な位置を持たない。これは、特に子供たちがキリスト教的生活の実際的な意味について学ぶ場が家庭であり、より広い人間社会と彼らの信仰の関連性を最初に発見するのは父母の模範を通してであることを思えば、悲劇的な状況である。これらは、彼らが大きくなったときにも宗教を信じている同じ子供たちなのだが、その宗教と現代社会を形作っている巨大な経済的、社会的、技術的な力との関わりを見いだすことができないでいるのだ。それらの力は、成熟した、責任ある、憐れみ深い宗教的関心によって人間味を感じさせる影響力を切実に必要としている。

 統一運動の結婚に対する理想は、クリスチャンの家庭に社会的な責任感を取り戻すことができるだけでなく、現代における多くの婚姻関係の「圧力鍋」的な雰囲気と私が呼ぶものを緩和することができるかもしれない。そのような雰囲気は、配偶者が互いにエゴの実現を期待し過ぎるときに生じる。そのような役割に対する期待から生じた圧力は、カップルをお互いのニーズの全てまたはほとんどを満たすという不可能な仕事にもっぱら集中させることによって、結婚における自由と親密さの両方を妨げるのである。もしカップルが世界に対する共通の献身を通して、彼らの関係を何らかの方法で人間社会に奉仕するために神によって定められたものと見るならば、結婚に対するより現実的で健全なアプローチは明らかであろう。例えば、子供が欲しいという欲求は、単なるエゴ体験というよりは、愛と責任のある人間の新しい世代を創造し育てる機会として理解することができるであろう。親になるためのそのようなアプローチは、成熟した人々を必要とする。われわれはまた、人々が結婚許可証を申請する最低年齢を25歳くらいに設定する統一教会の慣習について次に熟考すべきかもしれない。あるいは、いわゆる「適合できない」子供たち、障碍や深刻な情緒的問題を持つ小さな子供たちに愛のある家庭を提供するために、自身の子供を持つことをあきらめるカップルもあるかも知れない。世界に奉仕する姿勢のあるカップルは、お互いへの献身からくる人間の生活の質を高めるのに役立つ結び付きだけでなく、常にお互いのニーズを満たすことを心配しないことによる自由の中に満足感を得るのである。私自身の結婚では、妻と私は一時的に代理家族を必要としている知人たちに自宅を開放している。われわれは自分の所有物と愛を非常に具体的な方法で共有し、一緒に他者の世話をすることによって、われわれの互いに対する愛と尊敬が常に刷新されることを発見したのである。

 最後に、世界に奉仕する姿勢により、カップルはコーポレイト・キャピタリズムが結婚、家庭、社会に及ぼす有害な影響に抵抗できるようになるであろう。ロバート・ベラは「現在のアメリカの経済システムは、その主要な組織広告により、人類のありとあらゆる古典的悪徳を広め、この国がよって立つ価値観と美徳を容赦なく弱体化させることに専念しているように見える。」(注6)と論じている。物質的財産およびそれと結びついた社会的地位のあくなき追求は、私の見解では、まさしく文字通りこの国を引き裂いている。結婚したカップルは、気が付けば「愛への憧れと法定通貨のための闘争」(注7)の板挟みになっているのである。統一運動の結婚に対する理想は、財産が幸福への鍵であると強調する欲張りな社会のやり方に従う必要はないということをわれわれに示唆している。世界共同体に対する責任を富や財産以上のものとする家庭においては、それが他者と共有する愛が家庭の中でも生き生きと育つであろう、と私は信じる。

 アメリカにおける結婚のパートナーたちが、彼らの志向性を自分自身から世界へと変えるかどうかに関わらず、結婚制度が将来にわたって生き残るであろうと今日信じるに足る理由は存在する。私が指摘したいのは、生き残るだけでは不十分だということだ。われわれの社会が統一運動の教えの本質を理解し始めるまで、結婚生活と家庭生活の質は低下し続けるであろうと私は信じる。その本質とは、個人、結婚、その他の社会的存在は、神と世界に対する愛と責任ある奉仕の中にこそ、真の満足を見いだすということである。

(注4)私はこの議論にユダヤ教を含めなかったが、その理由はユダヤ教が結婚と家庭の社会的責任を非常に重視していることを私が知っているからである。
(注5)『メソジスト教会の教義と法規』、ナッシュビル:メソジスト出版社、1956年。
(注6)ロバート・ベラ『破られた契約』、p. 135。
(注7)ジャクソン・ブラウン『詐称者』ロサンゼルス、エレクトラ・レコーズ、1976年。
(注8)前掲書

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