ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳06


第1章(4)

統一運動もまた、19世紀の先駆者たちのように、アメリカの伝統からすれば際立った、独自の複雑な性と結婚に対するアプローチを形成した。上記のルカ伝の聖句(訳注:「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。」<ルカ20:34-35>)に対するその解釈によれば、イエスが意図したことは、「彼の時が来るまで」、復活の状態において結婚はないということであった。もしイエスがユダヤの指導者たちによって拒絶されて十字架にかからなかったならば、彼は弟子たちの永遠の結婚を祝福し、それが地上に神の国を実現するための要石となったであろう。これが起こらなかったため、そのような結婚を実現することは、ほとんどの統一教会信徒が再臨主として崇めている、文鮮明の仕事となったのである。これらの祝福された関係は、モルモンと同様に、完全な救いにとって不可欠なものであり、これから見るように、神と世界の救済者としての宗教共同体の目的に奉仕するために主に機能しているのである。

本研究の主要な目的は、統一運動における性と結婚について事実に基づいた「客観的な」説明を行い、それがグループ内でどのように機能しているかに関して、実行可能な社会学的説明を提供することにある。我々の記述は、統一教会の神学の社会学的な意味を大いに強調するであろう。この思想的な構成要素をもっぱら独立した変数または原因としてのみとらえることは誤りであろうが、この研究が基礎としている証拠が強く示唆しているのは、統一教会の信徒たちにとっての神学的拘束力というものは、アメリカ社会の主流の宗教団体や教派におけるそれよりも、もっと重要であるということだ。

統一運動の性と結婚に対するアプローチは、それ自体が世の中の議論の的になるものではないが、神学的・歴史的・社会学的に見て、このグループの最も顕著な特徴である。そのうえ、メンバーの視点からすれば、それは彼らのムーニーとしての「生きられた経験」(注17)の最も意義深い側面の一つなのである。さらに、統一教会員の生活のこの側面に関する学問的調査は、たとえあったとしてもほんのわずかしか行われていない。(注18)そして、最後に、私の調査データは、このグループがメンバーの献身を維持し強化する能力は、何らかの方法でその性と結婚に関わる慣習と密接な関係にあることを示唆しているのである。

この研究を始めるに当たって、統一運動における性と結婚に関していまだ重要な研究がなされていないという事実を踏まえ(注19)、私は「一連の特定の仮説を持って状況に入っていくことは、状況に対して先入観を、そしておそらくは誤解を押し付けることである」(注20)というボグダンとタイラーの警告に留意するのが適切であると決断した。実際においては、私はデータそのものから仮説を出現させる方法を選んだ。その時点で入手可能な関連する文献資料を注意深く研究し、統一教会のメンバーと三日間にわたって形式ばらない議論をしたところ、社会学的視点から、グループの性と結婚に対するアプローチの重要性を、メンバーの献身を維持し持続させるという現在進行中の作業の観点から調べることが有益である、ということが明らかになり始めた。そのような作業を最小限成就することは、いかなる人間集団においても、そして特に統一運動のように新しくて社会学的に逸脱した団体においては不可欠であると仮定して、私は以下のような仮説を立てた:統一運動の性と結婚に対するアプローチは、メンバーの献身を維持し強化するうえで極めて有効である。

本研究において用いられている質的方法論の性質を踏まえ、この仮説は性および結婚に関する慣習とメンバーの献身との間に厳格な因果関係を示唆するつもりはない。むしろ、「極めて有効である」という表現は、統一運動のメンバーの視点から見て、また調査データ全体を踏まえて、グループの性および結婚に関する慣習は(それに根拠を与える宗教的信念と共に)メンバーのグループへの依存を高め、グループ外部との有意義な関与の選択肢を排除し、そして統一運動に対する彼らの献身を強化するような社会的役割へと彼らを導いているように見える、という意味で取られるべきである。(注21)

(注17)ここで用いられている「生きられた経験」(Erlebnis)とは、ヴィルヘルム・ディルタイに由来する専門用語である。彼はそれを、人間の外的表現と内的生活の間に存在する「統合」のことであると理解した。ディルタイによれば、「他者に関するすべての知識が依拠している根本的プロセスは、我々の内的生活を自身の周囲の対象に投影することであり、我々自身と構造において類似した精神生活をそうした対象に帰属させることである。」(H・A・ホッジス『ヴィルヘルム・ディルタイの哲学』[ロンドン:ルートレッジとケイガン・ポール、1952]、P.63)。もしディルタイが正しければ、統一運動のメンバーたちの思想と行動を理解する可能性は、「Erlebnis」の普遍性にかかっている。
(注18)「宗教的回心の心理社会学的分析」(M・ダロル・ブライアントとハーバート・W・リチャードソン[編]『考察すべき時』[ニューヨークとトロント:エドウィン・メレン出版、1978]に掲載、pp.82-130)と題する小論の中で、リチャード・デマリアはこの運動における性に関する態度と実践について簡潔に論じている。ジョセフ・フィッチャーの「結婚、家庭、および文鮮明」(雑誌「America」141[1979年10月27日]:226-228)もまた、この話題に関する短い概観を提示している。これら二つの記事は更なる研究のためのいくつかの興味深い提案をしているが、いずれも綿密な実証的調査に基づくものではない。
(注19)統一運動に関してなされた仕事がわずかであることに加えて、文献を注意深く調査することによって明らかになったことは、新宗教における性は、これらのグループがこの点においてアメリカ社会全般とどこか異なっているにもかかわらず、一般的にもあまり注意深く研究されてこなかったということである。これまでに現れた信頼できる研究は二つだけである:ジェームズ・T・リチャードソン、メアリー・W・スチュワート、ロバート・B・シモンズ『組織化された奇跡:現代の若者共同体による根本主義組織』(ニュー・ブルンスウィック、ニュージャージー:トランザクション・ブックス、1979年)、特に第5章;;ロイ・ワリス「救いと抗議」(ニューヨーク:聖マーチン出版、1979年)の第5章「性、結婚、および神の子供たち」
(注20)ロバート・ボグダンとスティーブン・J・タイラー『質的調査方法概論:社会科学への現象学的アプローチ』(ニューヨーク:ジョン・ウェスレー・アンド・サンズ、1975年)、P.27
(注21)ジョン・ロフランド「社会的環境の分析:質的観察と分析の手引き」(ベルモント、カリフォルニア:ワドスウォース出版社、1971年)、pp.59-71における、質的調査者にとっての因果律の代替としての「予備的憶測」に関する秀逸な議論を参照のこと。

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