ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳72


第8章 未来:いくつかの個人的考察(3)

 私が理解しているところによれば、統一神学の本質は神が個々の人間を創造したのは、彼らがより大きな人類共同体に対して責任をもち、愛情あふれる奉仕者となるためであった。これが意味するのは、理想的には個人はそれ自体が目的ではなく、彼または彼女は他者に仕えることを通して神に仕えることに満足感と究極的な意味を見いだすということだ。そのような理想はもちろんそれ自体ユニークなものではなく、ユダヤ・キリスト教倫理の不可欠な要素である。統一運動が独特なのは、この理想を徹底的なやり方で結婚に適用している点だ。個人の生活が他者のために捧げられているだけでなく、結婚もまた第一に世界において神に仕える手段であると見られているのである。個人の満足感が人間のニーズに奉仕することに向けられたエネルギーと行動の中に見いだされるのと同じ原理が、統一神学によれば、結婚にも適用され、その第一の存在意義は世界の救済なのである。

 われわれの社会の大半の人々が(その見解が宗教的であれ世俗的であれ)結婚をどのように見ているかを評価するうえで統一運動の理想を用いれば、かなり重要な洞察に至る。社会学者たちは一般的に、性と結婚に関する価値観に関する限り、アメリカ人は次第に極めて個人主義的な価値指向を示すようになってきているという見解で一致している。この流れは、ロバート・ベラが指摘した抑制のない個人主義へと向かうより広い文化的傾向の一部であり、それは歴史的に一般的な善を強調する「市民宗教」によって抑制されてきた個人主義であったが、いまや社会全体の利益に対する深い関心をまったく欠いた状態で働いているようにみえる。

 このような奔放な個人主義と、自己の欲求を適えることに過度の焦点を当てることは、私の見解では、結婚そのものに対しても、社会一般に対しても、肯定的な利益をもたらさない。なぜなら、人々が完全に自己の興味に従ってお互いに関わるようになるとき、その関係はしばしば、あらゆる種類のフラストレーション、葛藤、苦しみを伴う強烈な闘争となるからである。結婚の関係が自分のパートナーからより多くの満足を引き出そうという欲望に基づいているとき、その関係は相手が自分の欲求を満たしてくれなくなったときには終わりを迎えざるを得ない。アメリカ社会における婚約破棄、疎外、別居、離婚の増加は、ベラの「大宇宙的な破られた契約」が顕著に現れた縮図的出来事なのである。(注2)

 統一運動の結婚に対する理想は、特にわれわれ自身が結婚を価値視していることに鑑みて、アメリカ人がじっくり考えたらよいであろう選択肢を提示している。実際、われわれの社会における離婚の蔓延は、われわれがどのくらい本当に結婚を価値しているかを測る重要な指標である。バーガーとケルナーが述べたように、「われわれの社会の個人が離婚するのは、結婚が彼らにとって重要でなくなったからではなく、それがあまりにも重要になったので、彼らが問題としている特定の個人との間に交わした完璧な成功以下の結婚の取り決めに対して我慢できないからである。」(注3)

 したがって、われわれは真のジレンマに直面している。われわれは結婚を極めて高く評価しているが、一方でそれと同時にますますその理想を実現することができなくなっているのである。私は個人的に、アメリカ(特にわれわれの宗教組織)は、統一教会の理想を注意深く偏見なく検討することを通して、結婚に関する何か非常に重要なことを学ぶことができると確信している。そしてそれは、もし望むならば、現在われわれが陥っている結婚の窮地から抜け出す道を示す教訓なのである。統一教会の理想が行っているのは、第二次世界大戦終了以前のアメリカ社会に潜在していた結婚に関する価値観を、強い宗教的献身の枠組みの中で明確化することである。そのときまで、われわれは結婚と家庭生活は個人と社会の両方のために存在するものであると暗黙のうちに仮定していた。その暗黙の了解はより最近になって「市民宗教」の崩壊と、その結果としての主として物質的所有物の獲得による個人主義的な幸福の追求の勝利によって損なわれてきた。

 社会学者が統一運動のような小さな共同体的グループの研究から社会の性質について学んだことの一つは、抑制のない個人主義は、あらゆる人間の共同体の結束を弱体化させ、最終的には壊滅させてしまうような遠心力として働くということである。そしてベラの分析とも一致するように、これこそまさに近年のアメリカ社会に起こっていることであると私は言いたい。我が国の社会的・文化的一体感を侵食してきた遠心力は、結婚と家庭生活にも疎外をもたらしたのである。

 統一運動の理想は、個人主義に対抗し、結婚およびアメリカ社会一般における求心力を放出することのできる価値指向を形にした結婚についての、実行可能な選択肢を提供する。この代替的アプローチにおいては、個人およびその目的は全体目的の下位にあると見られている。結婚においては、これは夫婦の誓約は彼ら自身の欲求のためだけにあるのではなく、結婚・家庭という結び付きが共有するニーズのためにあるのである。さらに、結婚・家庭はそれ自体が目的ではない。それは第一に社会の全般的な福祉に貢献しようとすることを通して神に仕えるために存在すると見られているのである。

(注2)私は、個人主義以外のアメリカにおける高い離婚率の主要因、とりわけ経済学的考察については承知している。しかしながら、その結婚の失敗率が上流階級よりもはるかに高い貧困層の窮状は、より大きな規模での抑制のきかない個人主義がもたらした結果であると見ることもできるであろう。それは、レーガン政権時代に次第に明らかになってきた文化的・社会的指向である。
(注3)バーガーとケルナー『結婚と現実の構築・・・』p. 69。

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