ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳66


第7章 分析と発見(9)

 にもかかわらず、翻訳は創造ほどは複雑ではない。統一運動のカップルは、修練期間中に内面化された既成の意味世界をすでに持っている。したがって、彼らの関心は「なにか」に関することではなく、「いかに」に関することである。もしわれわれがこのプロセスを社会活動の観点から考えれば、主流のアメリカ社会において婚約・結婚したパートナーは基礎研究を行っているに対して、統一運動のカップルは応用研究を行っているのである。後者にとって、規範の境界と価値観は既に明確に確立され、二人の関係の中でそれを稼働可能にすることが彼らの責任なのである。統一運動の世界の救済者としての志向性がいかにわれわれの結婚を特徴づけ形作るのか、ということを彼らは問わなければならない(そして実際に問うている)。この問題が一度ならず繰り返し、彼ら自身の間だけでなく他の祝福家庭との間で「語りつくされる」と、統一運動の結婚を構成する「世界の中の世界」が、初めはぼんやりと、そして次第にくっきりと、出現し始めるのである。

 この研究の初めに言及したように、統一運動の中には(伝道、資金調達、およびその他の使命を通しての)熱烈な地上天国の追求と、来るべき天国の基本的社会単位としての結婚・家庭に対する高い価値視との間の、大きな緊張状態が内在している。これまでの強調は前者の関心であったので、その結果としてその他の組織的目標と比較して結婚の優先順位は低かったのである。理想におけるこの緊張は、大部分においては統一運動のカップルに受け入れられてきた。それは彼らが近い将来より結婚と家庭に関する伝統的な生活環境に定着すると信じたからである。しかしながら、最近はいくつかのカップルにとってはこの緊張が、彼らと共同体との間の規範なき決裂と感じられるようになってきた。彼らのカップルとしての会話の世界が、社会的に構築されたグループの現実と調和していないという意味での断絶である。

 統一運動における性と結婚の現象学的考察が明らかにしたのは、そのメンバーにとって主要な(そして唯一の)規範的手段となるような一つの宗教共同体である。アメリカ社会において婚約・結婚したカップルが、秩序立った制御可能な世界を彼らの関係性の私的領域の中で確立しようとするのとは対照的に、統一運動の結婚は宗教共同体の公的世界の一部であり、多くの面においてその世界によって形成されるのである。アメリカにおける結婚に関して、バーガーとケルナーは「個人が現実の断片を取って彼の世界に形作ることができるのは、何よりも、そして原則として、その私的領域においてのみである」(注50)と述べている。それとは反対に、統一教会の信者は彼らの結婚を世界の救済者としての志向性の表現であるとみており、だからこそ、彼らは単なる「断面」ではなく、現実の世界を作り直すことにコミットしているのである。(注51)

 統一運動の性と結婚に対するアプローチはメンバーの献身を支え強化するという論点に対する、この第二のレベルの分析の妥当性をいまや論じることが可能である。明らかに、三年間の修練期間は新しいメンバーが共同体の新しい現実・世界に入っていく時間を示している。この世界の内面化と客観化は、恋愛および性的な愛着を絶対的に禁止することによって促進される。新しい改宗者は、本質的には、自分自身を説得すると同時に、説得されてグループに入るのである。

 婚約・結婚したカップルは、ここでもまた言葉を通して、共同体における意味を二人の関係において妥当になるように翻訳するのである。この翻訳の過程を通じて、統一運動の結婚はより広い信仰共同体の縮図となるのである。未婚のメンバーの世界の救済者の視点は、婚姻関係の目標を示し、そのパターンを形作るようになる。結婚は、運動の中心部への決定的で後戻りできない一歩を示しており、そこでの現実は確かに「聖徒の交わり」を反映しているのである。

 統一運動の結婚はしたがって西洋世界の以前の結婚の形態に非常によく似ている。
「結婚と家庭はかつて、より広い共同体の土台の上にしっかりと埋め込まれており、後者の社会的統制の延長および特殊化として機能していた。個々の家庭の世界とより広い共同体の間を分離する障壁はほとんどなかった。この事実は、産業革命以前に生きた家族たちの物理的な条件の中にさえ見出すことができる。家庭においても、道端においても、共同体においても、同じ社会生活が脈動していたのである。私たちの言葉で言えば、家庭と婚姻関係の内部は、非常に大きな会話領域の一部であり一区画であった。」(注52)

 したがって、バーガーとケルナーの方法論に鑑み、統一運動の性と結婚にに対するアプローチは統一運動へのかかわりを強化する役割を果たしているという理論を立てるのは正当であるように思われる。これは特に、個人が外の世界において非常に決定的な代替可能な構造を築く可能性、すなわち、非メンバーとの関係を通して異なる規範世界を構築するを排除する結婚においては真実である。

 第三のレベルの分析は、組織構造(カンター)と世界構築の現象(バーガーとケルナー)の間の極めて重要な関連としての社会的役割を中心とするものだ。われわれは性と結婚に関連する統一運動の構造がメンバーの献身を強化する傾向があることを示し、宗教共同体の規範的手段が言葉のやりとりを通していかに世界の救済者としての結婚に翻訳されるかを描いた。扱われるべき残された課題は、構造と会話の関係の性質に関わるものでなければならない。構造はいかにしてメンバー相互間の継続的な相互作用に働きかけ影響を与えるのか? 質問をほかの視点から見れば、組織構造が信者たちの生きた経験から影響を受けるというようなことが仮にあったとすれば、それはどのように起こるのか? これらと関連した質問に対する答えは、証拠の大部分を考えると、社会的役割の概念に見出される。

 この研究の初めに、おそらく幾分かの軽薄さをもって、実行可能な「ムーニー」の定義とは、他のムーニーたちがすることをする者たちである、ということが示唆された。そのような概念は、一部にはブロムリーとシュウプによる宗教運動への参加に対する役割理論のアプローチを知っていたことから来たものであり、(注53)そして一部にはこの研究のフィールド調査段階で得られたデータから来たものである。ここでわれわれは初めてこのプロジェクトのために行われた調査に照らしてブロムリーとシュウプの理論を扱い、次に社会的役割が、統一運動の中で実現されその神学によって正当化されたとき、初めの二つのレベルの分析の関係について、いかに実行可能な社会学的説明を提供するかを説明する。われわれはまた、統一運動の献身構築において社会的役割がいかに媒体の役割を果たしているかを示すであろう。

(注50)前掲書、p. 56。
(注51)理想型分析の弱点の一つは、広く一般化しすぎる傾向にある。私たちはこれまでの章で、適切な性別役割、聖別・約婚期間における適切な行動、そして核家族に与えられるべき優先順位に関して統一教会の信者の間で違いがあることを示した。最後の項目に関しては、幼い子供を持つ祝福家庭婦人の相当数が、CARPの使命のための文師の呼びかけに反応しなかったという事実は、これらの女性たち(および彼らの夫)が大多数のメンバーよりも家庭により高い優先順位を与えたこと示している。
(注52)前掲書、p. 56。
(注53)ブロムリーとシュウプ『たった数年・・・』、pp.159-185。

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